2014年9月30日火曜日

Tu peux danser!

今月発売されたさだまさしの新しいアルバムに、「君は歌うことが出来る」という歌が収録されているらしい。ある日ラジオから流れてきて知ったのだが、曲の前にパーソナリティの女性が「とてもよい歌です」と紹介したので聞き耳を立てていたら、ジャンジャカジャーンとやたら賑やかな伴奏がいささか耳障りである。なんだかうるさそうな歌だと思っていると、いやいやどうしてなかなかよい歌詞である。さすがはさだまさし、というところだろうか。聞けば編曲はアルフィーの高見沢らしい。私はアルフィーにはまったく興味をもたないままオバハンになったのでそういわれてもその特徴を思い描けないのだが、噂によればこの曲のイントロだけで「この音は高見沢だな」とわかる人にはわかるらしい。そうなんだ、へーえ。しかし、やっぱしちょっとうるさいので、この「君は歌うことが出来る」という歌は音に耳を塞いで歌声だけに耳をそばだてるべしである。

君は歌うことが出来る、というリフレインを「君は踊ることができる」に代えて、ダンサーを志すすべての若者に贈りたい。君はなぜ踊るの? なぜそれほどまでに踊りたいの、踊りたいという欲求は、何を起爆剤にしているの? きっと、理由なんかない、ただ好きだから、と君は答えるだろう。だけど、その「好きだから踊る」という純粋な気持ち、強い思いを、目の前にある目障りな障害物をちょいとのけるためだとか、怒らせるとちょっとマズい身近な誰かのご機嫌とりのためだとかに使うんじゃなくて、遥か未来で出会うはずの尊い誰かに向けてほしい。ほんの少し顎を上に上げれば君のまっすぐな視線は、その先が遠くへ遠くへ到達するはずだ。親にも、教師にも、あるいは友達にも、踊ることが好きなんだという気持ちをぶつけてきただろうし、これからもぶつけていくだろうけど、君が踊るほんとうの理由がそんな手近なところでうろうろしてちゃいけない。君が好きなことに全力で打ち込み体現する姿は、いつか君の踊りを観た人に限りない希望や勇気を与えるかもしれない。君の無言の身体表現の中に、力強いメッセージを読み取る人がいるかもしれない。君の手と、足と、ほとばしる汗に、忘れていた情熱や愛が再び体内にわき起こるのを感じるかもしれない。まだ見ぬ誰かの深い感動のために、君は踊ることができる。何もできない人間なんかない。自分は無力だ何もできないと卑下する態度は謙虚に見えて実は何もしないで目を塞いでいるための傲慢な言い訳だ。人は必ず何かを行い、何かをもたらすことができる。「できることなんか何もないよ」というのは浅はかな逃げだ。声の出る人は歌うことができる。体の動く人は踊ることができる。筆をもてる人は絵を描くことができる。歌を詠むことができる。心をもつ人には祈ることができる。
君は踊ることができる。



君は歌うことが出来る

作詞・作曲 さだまさし

君は歌うことができる
知らない名前の雨や
知らない季節の花や
知らない風の匂いを

君は歌うことができる
誰も使わない言葉で
誰も知らない言葉で
誰にもわかる言葉で

ありきたりの愛の言葉や
使い古された励ましの言葉
そんな言葉を捨てて
君は君の言葉で
歌うことができる

目の前に何者かに
決して媚びて歌を売るな
遥か未来で聴くはずの
尊い誰かのために歌え

いつか君の歌が遥か
時を超えて響くために
その遠い遠い未来へ
必ず届くように歌え

君は君の言葉で歌え
自分の声で泣きたいなら
僕は僕の言葉で歌う
自分の声で泣きたいから

君は祈ることができる
愛する人のために
見知らぬ誰かのために
自分以外のすべてのために

君は祈ることができる
傷ついた人のために
傷つけた人のために
それを恨む人のために


(後略)