2015年2月28日土曜日

Bravo!

今日でもう終わるけど、今月は娘にとってなかなか大切な月であった 。彼女は2月生まれだから、19歳の誕生日を迎えるということがひとつ。もうひとつは、ベルリンで開催されるあるダンスフェスティヴァルへの参加である。現在所属の学校からは毎年数人が参加し、参加者の多くがなにがしか受賞を得てきた。留学1年目はそのメンバーに入れてもらえなかったのだが、昨秋、2015年のフェスには参加させてもらえることが決まった。学校公演の練習もあるなか、それとは別枠でフェス向けの練習をするのは時間的にも体力的にも精神的にもかなり負担が大きかっただろう。しかし、そういう「いろいろなことがてんこもりの毎日」を捌くのは比較的得意な我が娘、さほど苦にもせず、朝も昼も夜もあれもこれもそれも、嬉々としてメニューをこなしていたようである。

二人で踊る演目だったので、息ぴったりでないと表現できないし表現したことも見る側に伝わらない。技術面での課題も多かっただろうが、二人のコンビネーション確立のほうがより重要なテーマだったに違いない。幸い、相方とはもともとべったりべたべたの仲良しだったわけでもなく、といって犬猿の仲でもなく、今回のデュオ作品を通じて日に日に相互理解を深めていったという具合で信頼度も高まった。相手がそういう存在の仲間だったということは、娘には精神面で大きな影響があったと思う。何しろヤツはスポ根漫画から飛び出たようなキャラクターなので、チームワークに基づく精神の充実がものをいう。自分とはまったくタイプの違う先輩女性だからこそ、率直な意見交換をすることができ、自分にはないものを豊かにもつその人からズンズン吸収し、ある意味ライバル意識も強まり、パートナーシップを育むことができたと思われる。

19歳は中途半端な年齢かもしれない。日本では20歳を成人と規定しているので、20歳になる前のほぼ20年間は、ボクは、ワタシは子どもなの、という意識をもたずにはおれないだろう。10代で親になる若者もいるし、ある分野のプロとして自立している若者もいる。だが彼らとて、20歳という年齢でいったん線引きされるとき、今日から大人だもんね、的な意識が頭をもたげるのを否定はしないだろう。

娘の場合、昨年18歳をドイツで迎えて、その日を境に成人となり、さまざまなことが一気に解禁になった。私はいちいち「保護者であることの証明」なんぞを送らなくてもよくなった。寮の門限はなくなり、銀行口座も簡単に開くことができた。
そんな状態なのでかの地ではいっぱしの大人扱いはされている。しかしそれは人間としての成熟はまったく意味していない。ドイツに限らず西欧のどの国でも日本の成人式にあたる行事はないそうだが、18歳になったらあれもこれも責任をもって判断して行動しないといかんのよ、というのは自明のことである。いちいち式典なんぞでいわなくても、18歳になったらなったほうはこれからはいちいち四の五の言われないぞと思うだろうし、なった子を見守るほうは何でも自分で考えて決めてちょうだいねと思うと同時に、まだまだ未熟だという自覚ももてよ、というところだろう。
そんな空気のなかにいる娘は「昨日と今日で自分がでかくなったり賢くなったりと急に変わるわけではない」といい、「まだまだ実力も足りないしからだづくりもできてない、心もダメダメで甘えてる」ともいう。至極真っ当な意識のもちかたで結構なことだ。いっぽう、「世の中に知らないことは山ほどいっぱいあるっていうことはわかってるけど、かといって何でも知って理解できるほどキャパないし」と謙虚に振る舞いつつ、関心ないことはどうでもいいと、視野を広げさせたがる親に釘を刺す。
いずれにせよ「まだ」19歳と「もう」19歳という感覚は、いくつになってもつきまとう。責任ある言動、行動をとらねばならないのは、高校を途中でやめて外国へ行くことを決めたときから課せられていることである。そういう意味で娘はそこそこ覚悟はできている。だが自分の未熟さ、技術的な発展途上状態をいいことに、私はまだまだこれからだもんドンマイドンマイと、若さを言い訳にしがちなところがあるのも事実だ。

娘の同級生には高校を卒業してすぐ結婚し、子育てに奮闘している子もいる。バレエ教室で2年先輩だったある女の子はとても上手だったので憧れていたが、ひょんなところから飛び込んできた近況は「現在2児のママ」であった。親になることイコール成熟、ではないけれど、子どもをもつと世界観が変わるぞという話を母親から嫌というほど聞かされている娘にとって、早くも母親になった友達の目に映る世界と自分のそれとは大きく乖離しているのだということは想像できるだろう。

誰もが自分の生きる場所で確実に階段を上っている。その階段に大人と子どもの境などはない。ないけれど、階段の段差が大きいところも小さいところもあるだろう。小さいところを2段3段飛ばしで上るのか、1段ずつ丁寧に上るのか、そんなことによっても成長、成熟の度合いは異なってくる。焦らず、また呑気すぎることもなく、たしかな歩幅を保って上っていってくれればいい。19歳というのはいかにも中途半端で、エネルギーを持て余す。存分に消費すればいいと思う。

さて誕生日を迎えて数日、ベルリンのダンスフェスで娘たちのデュオ作品はブロンズメダルを受賞した。なんとよいニュース! ネームヴァリューのある賞ではないが、参加が決まったときから懸命に努力してきたのは事実だから、頑張りが認められた、なんて小学校で「よくできました」をもらうみたいな言いかただけど、実際そのとおりなので、めいっぱい喜んでいい。ほめてもらったよーわーい。

おめでとう! ほんとうにいい誕生月になったな。ダブルのフェリシテを君に!

2015年1月11日日曜日

Je suis Charlie...

パリのシャルリエブド社襲撃事件のあと、いつものメールに、テロのあったことを知ってるのかどうか尋ねたら、「知らんかったー。パリ、大変なことになってるなあ。こっちでも気をつけまーす」と返してきた。気をつけろ、と私が書いたからだけれども。

大都市居住者は例外なく気をつけなくてはならない。しかし、いったい何に気をつける? 用心するにこしたことはない、そりゃそうだが、何をもって用心することになるのか。いったい何に対して警戒しろというのか。……というような疑問は起こらないのか、娘め。

今回のテロはひとりフランスだけの災禍ではない。イスラム原理主義過激派組織からの、欧米社会に対する宣戦布告だ。彼らはとっくにテロを始めている。報道によれば、フランスの警察はいくつかのテロ行為を、情報を傍受することによって未然に防いできたという。それなのに今回テロリストは包囲網をくぐり抜けた。 警護までつけていたシャルリエブドの編集長は、警備員もろとも銃殺された。テロを「成功」させてしまったこの時点で、イスラム原理主義過激派組織側の勝利であり、西側欧米諸国の負けであった。この機に乗じて、彼らは必ず次々と仕掛けてくる。強化訓練を受け「任務」遂行可能となったテロリストがすでに西側諸国各地にふつうの住民のふりをして潜伏しているのだ。
ネオナチズムが頭をもたげ、つねづねトルコ系住民への差別行動が問題視されるドイツで、イスラム原理主義者たちによるテロが起こらない理由はない。アルカイダは暗殺の対象者をリストアップしているという。暗殺リストに挙がっているのは募った憎悪の対象だろうが、殺されるのは対象者たちだけではない。巻き込まれる周囲の住民、駆けつけた警官。無関係なのに見せしめに殺害される人質。逃亡時に巻き添えに遭う通行人。

そう。テロの標的になどなるはずはない。恐ろしいのは巻き添えに遭うことだ。それはいつだってどこでだって起こりうる。ひとり外国へ行かせた時からその危険性には覚悟しなくてはならない、お互いに。いや、一緒に居たとて、危険とはいつだってどこでだって隣り合わせだ。だから、いちいち心配するのはバカな話だ、きりがない、万に一つもないだろうことで憂うのはやめるべし……と思っていたけれど、親の浅はかさ、落ち着かない。

パリの友人たち何人かとは連絡がつき、危険な目に遭った者はいなかったから安堵したけれど、大きな悲しみ、深い心の痛手に皆押し潰されそうになっている。あまりにも惨いやりかたで、フランス人が心のよりどころにしていた「自由」が血塗られたのだ。

娘は(というか日本の子どもたちは皆)小中高と「人権教育」なるものを道徳の授業とか、課外授業や、社会見学などを通じて受けるのだけれど、いったい、「人権」について何をわかっているのかと思う。なにもわかっていないだろう、たぶん。「人権を守る」ということが「優しくしましょう」「思いやりの心をもちましょう」などというごく個人的な感情の起伏による行動に置き換えられ、それはすでに人権教育の決まり文句になっている。
憎むべき対象であっても人権は守られなくてはならない。
外道でもカスでもボンクラでも、人間には基本的人権があるのだ。
無差別テロを繰り返す犯罪者集団であっても人権はあるのだ。 今回の銃撃犯を射殺した時点で、死刑制度を廃止したフランスにとって、犯罪者を捕らえて裁判にかけられなかったという意味で、二重の敗北だ。
敗北、の意味が、娘にわかるだろうか。我が娘ながら残念だけど、無理だ。娘はもう18歳だけど、そのあたりの認識は欧米の18歳に遠く及ばない。

今、これを書きながらRFI(ラジオ・フランス・アンテルナショナル)を聴いているのだが、ちょうど追悼のデモを取材しているところだ。何人かにマイクが向けられている。12、3歳くらい(たぶん)の男の子の幼い声が答えている。「驚きました。正直、現実とは思えなかった。嘘だろ、と思いました。でもその次に怒りが込み上げました。亡くなったのが新聞の画家や記者と聞いて、これは表現の自由(Liberté d'expression)の侵害だし、僕らの国フランスが第一に大切にしている自由への冒涜だと思いました」

おい、娘。同じことが起こったとき、こんだけちゃんと自分の考えをいえるか?

今頃、とあるバレエ団のオーディションを受験中だ。いや、いいのだ、君には夢中になる対象がある。ただ描いていただけの夢を具体的な目標に変え、それに向かってひたすら努力するがいい。ただ、時には、冷静に自分の足許を見つめ、そこにそうしていられる奇跡を噛みしめてほしい。人の数だけ人生があり、同じように生を受けた人間であるにもかかわらず、信じるものが異なり、師と崇める対象も異なり、命がけで取り組むものが異なり、憎しみをもったり、愛情をもったり、テロリストになったり、テロリズムに命を落としたりする。その紙一重の、襞のような分かれ道の数々を、踏み外すことなく間違うことなく(たぶん)歩んで来れた奇跡を。