2014年12月31日水曜日

Imagines!

「彼女は暇を持て余すのが苦手である」という文は日本語として成立するのか。いや、成り立たないな。「持て余す」という言葉が「処置に困る」という意味だ。ではどう表現したらよいだろう。
「暇を持て余す」=「空いた時間の処置に困る」ならば、「処置に困り果ててどうしたらよいかまったくもってわからない状態が続いている」ようなことを「持て余す」という語を使ってもう少しするっと表現できないか。
「彼女は暇を持て余し過ぎる」……言葉足らずなティーンエイジャーみたいだ。
「彼女はひどく暇を持て余している」……正確なんだけど、うーん。いまひとつ「どうしたらよいかわからない」感に欠ける。
「彼女は暇を持て余すことに慣れていない」……お。これ、いいんじゃないか? 


中高生時代、娘は分刻みで毎日のタイムスケジュールを自己管理していた。部活朝練、学校、部活放課後、お稽古、夜の自主トレ。その合間に食事と間食。定期テストがあるときは放課後の部活の代わりに試験勉強が入る。いつも時間割りをつくって、時刻の目盛りに沿って線を引いて区切り、「英語暗誦」「朝ごはん」「プリント見直し」「バレエ」「ランニング」「腹筋」などの項目を書き込む。そしてほぼ正確に計画したとおりに行動する。我が娘ながら見事なもんであった。もちろんうまくいかないときもある。何かに思いがけず時間を取られたときは、そのぶんをどこかで取り戻し帳尻を合わせた。とくにバレエのレッスンや自主トレの部分で時間の配分が狂ったときは必ず調整した。いっぽう、勉強の予定が狂ってメニューをこなせないことがあっても、それには執着せず放置した。……このあたりがポイントだったな。ま、ともかく、現代の子どもたちは忙しすぎると言われて久しいが、我が娘もご多分に漏れず多忙な子どもだった。

それでも小学生のあいだはめいっぱい校庭や公園で遊ぶのが常だった。
娘が小さい頃は、放課後のグランドは鬼ごっこやボール遊びをする子どもたちが必ずいた。公園に行けば年が上の子も下の子も混じってその時々で手を替え品を替え遊んでいた。つるつるの見事な泥だんごをもって帰ってきたこともあった。友達の振り回したバドミントンのラケットが頭にバシッと当たったこともあった。1年生のとき、玉なし自転車で初めて走れた現場に居合わせてくれたのは、近所の6年生の女の子たちだった。

中学生になると、そんなふうには遊ばなくなった。「遊ぶ」ためには何日も前から周到に用意して時間を確保しなければならなかった。娘が小さい頃は、仕事の休みの日曜日、あてもなく自転車を転がして、どこ行こう? なにしよう? 思いつくまま、鴨川に降りて水に足をつけたり、堀川通沿いの松ぼっくりを拾ったり。図書館で絵本を一緒に読み、飽き足らず抱えきれないほどの絵本と紙芝居を借りて持ち帰って、毎日毎夜読んだ。だが、そんなふうに、母の私と娘の共有できる時間は急速に減ってしまい、それぞれがそれぞれの役割を果たすために時間を使うようになっていった。私と娘はつねにかかわりあってはいるが、一緒に行動する時間といえば朝食ぐらい、という状態だった。今日も晩ご飯、一緒に食べられへんのか、という祖母のつぶやきを彼女はどう聞いていただろうか。食卓をともにすることを無上の喜びとしていた娘が、そのつぶやきに心を痛めないはずはなかった。だからこそ、三人揃っての夕食のチャンスは、絶対に譲らず確保した。稀なことだったが、ともに台所に立ち、食事の支度をすることもあった。しかし、そんなことは稀だった、ほんとうに。「今夜、8時半に帰ってご飯は9時には食べ終えるから、頼むで!」といった調子で毎朝タイムスケジュールを私に告げるのが日課だった。
そうした生活のおかげで、こなさなければならないメニューが盛りだくさんなときほど、娘は難なく消化した。高校に進学するとあれもこれもと生活はさらにタイトになったが、娘はむしろ生き生きと活力を増すばかりだった。一日にどれほどあれこれと詰め込んでもまったく苦痛にならないのだった。

ところがその逆の場合はまったくサマにならない。
暇であることに耐えられない。
寝るしかない。だから寝てばかりいた、たまの何もない休日などは。
本でも読みぃ、というと読んでみるものの、すぐ睡魔に襲われるのが常だった。
暇でいることが苦痛だった。
「暇で、死ぬ」
和室の畳に大の字になって寝転がって、そうつぶやいたことがあった。
贅沢もん。
そうはいうものの、これは実際ほぼビョーキだな。と、私は思っていた。

案の定、留学先では時にこの「暇すぎて死にそう」状態に陥っている。
学校は、休みの日もある。レッスンが午前中で終わるという日もある。ルームメイトが留守のときもある。友達が帰省中のときもある。自分の相手をしてくれる「誰か」も「何か」もないとき、どうしたらいいかわからなくなるのである。

学校が休みのときは、ほかのスタジオのオープンクラスに参加している。
街でウインドーショッピングするのは大好きだ。
美術館や古い城館の多い街だから、見学にもよく行く。
友達から流行りの小説本を借りて読んでいる。
寮にはオーディオルームがあるのでDVD観賞なんぞもよくする。

「でも暇や。1日24時間あるし。ずっと寝てられへんし」(最近の娘のメールより)

そういわれても私は、暇を持て余すような事態に長年陥っていないので、よいアドバイスはない。私の若い頃は暇さえあれば漫画を読み、漫画に飽きたら本を読み、お小遣いのあるときは映画館で名画3本立てを観た。どれもつまらないときは、ひたすら絵を描いていた。そんなことでじゅうぶん、時間をつぶせた。たとえば友達との約束が直前になって流れてしまって予定に思わぬ穴が空いたときなど、たしかにいきなり現れた手持ち無沙汰な空白を持て余すことがある。読みかけの本もない、そそられる映画も芝居もやってない、そんなときは、ぼーっと座り、コーヒーでも飲みながら、想像する。

もし友達と会っていたら。彼が、彼女が着ている服。履いている靴。かけている眼鏡。よく会う人が相手なら想像は乏しくなるが、ひさしぶりだったり、特別な約束だったりすると、逃がした魚は大きい、じゃないけど、やたら想像はたくましくなる。

そんな想像は意味なく虚しい、無駄なものだと笑われるだろうか。私は、そうは思わない。そんなふうにして想像し始めるととめどがない。友達はいつの間にか結婚衣装に身を包みシャガールの絵のように空を飛んだりする。私はいつの間にか友達の肖像画を描く画家になっていたりする。私の個展を観にきたロートレックが、いいモデルを紹介しようといってパリのキャバレーに連れて行ってくれ、艶やかに踊るジャンヌ・アヴリルと知り合い、互いの身の上話に花を咲かせてマブダチになる……。あの時代のモンマルトルにいたら、私は何をどう表現する人間になっていただろうか。ロートレックが大好きだけれど、もし同時代人であっても私は彼を愛しただろうか。早すぎる死に、泣いただろうか。

「お母さんは時間があったらそんなこと考えてんの?」(最近の娘のメールより)

いや、全然考えてない。
我が身を振り返れば、ほんとうに、そんなふうに、何の役にも立ちそうにない想像ごっこに時間を費やすことなど、ずっとずっとやっていない。
だけど私も、上で書いたようなバカな妄想ごっこに耽ったのは、大学時代と、留学時代がいちばん多かったように思う。いちばん多かったというより、ずっとそんな毎日だった。有り余る時間を、本と映画と芝居とライヴと酒に費やしても、まだ時間はいっぱいあった。モンペリエにいたときは、水道橋の上の公園で、陽の落ちるのを待った。その場所では空一面を染めながら沈む夕日を眺めることができた。夕日を見ながら、授業で覚えたフレーズを暗唱したりもした。前夜のタンブールの音を反芻したりもした。そんなふうに時間が過ぎていくほどに、私の心はモンペリエではない別のどこかにあったりした。気がつけば夕焼けは星空に変わっていて、公園を降りてすぐのところにあるカフェが賑わっていた。
珠玉のような、時間だった。
娘は、こんなふうに時間を費やすことを罪なことのように感じるのだろう。それは違うよといっても、すぐにはピンと来ないだろう。慣れていないのだ、時間を持て余すことに。だが持て余す時間のあることは素晴しいことなのだ、ほんとうに。
そのときは、無為にしか感じない、いたずらに過ぎていく時間を捉まえられない自分がただ未熟者に思えて惨めになる。だが、そんな気持ちもひっくるめて、若いときにしか生きることのできない得難い時間であり生であるのだ。大なり小なり、誰にもある。持て余すほどの時間。ハンドリングできない無意味。手応えのない空白。そんなものどもに直面したとき、ただ想像の翼を広げるだけで、無意味は宝石になる。想像しろ。何でもいい。姫になった自分、絵の中で踊る自分、革命の旗手となった自分、メジャーリーグでホームランを打つ自分。すれ違った幸せそうなカップルの心の中。ベンチで寝るホームレスの見る夢。向かいのテーブルでスマホをいじるイケメンの裸のお尻。想像してみろ。想像は想像を呼ぶ。物語は絵巻物になる。

いくつもの架空の絵を頭の中で描くうち、絵は絵に終わらず身体化されて、やがて自分の内からほとばしる表現となって外へ飛び出していく。それを意識化できたときに、もしも舞台人として生きていれば、唯一無二の自分の踊りとして、あるいは振付や演出として、舞台作品としてつくることができるだろう。

暇そうやな。
想像しろ!

2014年12月27日土曜日

Les petits rats 7



ここ数年手足の冷えが耐え難いものになっている。若い頃に限らず中年になっても、寒がりではあってもいわゆる冷えを苦痛に思うようなことはなかった。なのに、靴下は重ね履き、ズボンの下にスパッツまたは厚手タイツ、足首にはレッグウオーマが欠かせない。手は、手袋をしていては何もできないので、手の甲まで覆うハンドウオーマを重ねづけしている。でも、冷たい。冷たくて乾いてカサカサがさがさである。けっきょくは、寄る年波なのか。
ところでレッグウオーマもハンドウオーマも自分の手編みである。編んだのは何年も前だ。昔編んだものの残り毛糸や、あるいはもう着なくなった毛糸ものをほどいた糸で編み直したものなど、筒状にゴム編みでまっすぐ編むだけなのですぐに作れてしまうから、やたらとそういうものが私の手許にはある。
ここ何年か愛用しているのは、娘が幼い頃に編んでやったバレエのレッスン用のレッグウオーマだ。小さかった彼女が着けると膝上まですっぽり覆うことのできたレッグウオーマも、私が着けるとふくらはぎすら覆えない。そんなわけで足首あたりでたるませておく。温めたいところを重点的に温めることができるので、これでいいのだ。
こういう温め小物を使い出すともう着けずに過ごせなくなる。冬はどんどん寒くなる。着ても着ても寒いし、こすり合わせてもカイロを握っても手は冷たい。でも足は、五本指靴下+ふつうの靴下+スパッツ+レッグウオーマで、とりあえず落ち着く。

娘のクラスメートの男の子に、冬でも半袖半パンツで通学している子がいた。いつの時代もそんな超人的な子どもがひとり、ふたりいる。娘も、どちらかというと小さい頃はめっぽう寒さに強かった。寒い寒い〜と、帽子やマフラーをやたら着けるのが好きで、帽子、マフラー、手袋は私が編んだものを中心にいくつもいくつも持っていた。だが実際はそんなに寒がりではないので、ひとしきり遊び、温まったからだで帰る時には防寒具のことなど忘却の彼方だ。お気に入りの、母ちゃん手編みの小物たちを、学校に忘れたまま行方不明にしてしまったり、ふざけながらの帰り道に落としてしまってもう一度引き返しても見つからなかったり、そんなこともしょっちゅうだった。

そうして頻繁に失くされても、編むことそのものが楽しい私は、へこたれずに次々と編み続けた。バレエ小物はレッグウオーマくらいしか編むものがなかったので、いくつか編んだけれど、やっぱり、レッスンが始まるとすぐにからだが温まってしまうので外してしまい、けっきょくあまり必要なかった。そうこういってるうちに身長が伸びて、レッグウオーマも長さと幅が必要になるといくら単純な編みかたでも時間がかかるのでもうしなくなった。娘のレッグウオーマはあまりくたびれないまま私に引き継がれ、私が履き倒しているので、近年かなりくたびれてきている。

冬になり、娘のレッグウオーマを着ける頃になると、これを着けてレッスンスタジオに入っていく娘の後ろ姿を思い出す。ほかの子も、それぞれ思い思いのレッグウオーマをつけ、いっぱしのダンサーのように、背筋を伸ばし、ステップを踏んだ。幼く、ぎこちない動きが、やがて彼ら彼女らにとって、起床して歯を磨き顔を洗うといった一連のお決まりの動作のように、ごくあたりまえの普段の動きになっていく。そんな日の来ることなど想像もつかなかったけれど、いまたしかに娘はそういう日常を送っている。過ぎてみて月日はなるほど矢のごとく飛んでいくと実感するいっぽう、矢のような光陰の、その濃密だったことにも、振り返れば愕然とするのである。普段着を脱ぎ、タイツを履き、レオタードを着て、髪をシニヨンにまとめ、シューズを履き、レッグウオーマを着ける。そのひとつひとつの「儀式」のあいだ、子どもたちの脳裏には何が去来していたのか、娘はいったい何を思って「装束」を着け、稽古場に向かったのか。いまは知る由もない。彼女は夢中だった、いつも。そして私も、夢中だった。その夢中の中身は、ほとんど忘れてしまった。いったいどんな夢を見ていたのだろう。娘の道はもう娘のものだ、私は傍観者にすらなれないだろう。ただこうして、娘の足も温めたレッグウオーマを、冬が来るたび身に着けて、何考えてたんだろうな、あたしもあの子も、みんなみんな、まったく、などと思いながら、やはり、小さかった娘の稽古着姿を目に浮かべてひとり、笑いを噛みしめるのだった。


2014年9月30日火曜日

Tu peux danser!

今月発売されたさだまさしの新しいアルバムに、「君は歌うことが出来る」という歌が収録されているらしい。ある日ラジオから流れてきて知ったのだが、曲の前にパーソナリティの女性が「とてもよい歌です」と紹介したので聞き耳を立てていたら、ジャンジャカジャーンとやたら賑やかな伴奏がいささか耳障りである。なんだかうるさそうな歌だと思っていると、いやいやどうしてなかなかよい歌詞である。さすがはさだまさし、というところだろうか。聞けば編曲はアルフィーの高見沢らしい。私はアルフィーにはまったく興味をもたないままオバハンになったのでそういわれてもその特徴を思い描けないのだが、噂によればこの曲のイントロだけで「この音は高見沢だな」とわかる人にはわかるらしい。そうなんだ、へーえ。しかし、やっぱしちょっとうるさいので、この「君は歌うことが出来る」という歌は音に耳を塞いで歌声だけに耳をそばだてるべしである。

君は歌うことが出来る、というリフレインを「君は踊ることができる」に代えて、ダンサーを志すすべての若者に贈りたい。君はなぜ踊るの? なぜそれほどまでに踊りたいの、踊りたいという欲求は、何を起爆剤にしているの? きっと、理由なんかない、ただ好きだから、と君は答えるだろう。だけど、その「好きだから踊る」という純粋な気持ち、強い思いを、目の前にある目障りな障害物をちょいとのけるためだとか、怒らせるとちょっとマズい身近な誰かのご機嫌とりのためだとかに使うんじゃなくて、遥か未来で出会うはずの尊い誰かに向けてほしい。ほんの少し顎を上に上げれば君のまっすぐな視線は、その先が遠くへ遠くへ到達するはずだ。親にも、教師にも、あるいは友達にも、踊ることが好きなんだという気持ちをぶつけてきただろうし、これからもぶつけていくだろうけど、君が踊るほんとうの理由がそんな手近なところでうろうろしてちゃいけない。君が好きなことに全力で打ち込み体現する姿は、いつか君の踊りを観た人に限りない希望や勇気を与えるかもしれない。君の無言の身体表現の中に、力強いメッセージを読み取る人がいるかもしれない。君の手と、足と、ほとばしる汗に、忘れていた情熱や愛が再び体内にわき起こるのを感じるかもしれない。まだ見ぬ誰かの深い感動のために、君は踊ることができる。何もできない人間なんかない。自分は無力だ何もできないと卑下する態度は謙虚に見えて実は何もしないで目を塞いでいるための傲慢な言い訳だ。人は必ず何かを行い、何かをもたらすことができる。「できることなんか何もないよ」というのは浅はかな逃げだ。声の出る人は歌うことができる。体の動く人は踊ることができる。筆をもてる人は絵を描くことができる。歌を詠むことができる。心をもつ人には祈ることができる。
君は踊ることができる。



君は歌うことが出来る

作詞・作曲 さだまさし

君は歌うことができる
知らない名前の雨や
知らない季節の花や
知らない風の匂いを

君は歌うことができる
誰も使わない言葉で
誰も知らない言葉で
誰にもわかる言葉で

ありきたりの愛の言葉や
使い古された励ましの言葉
そんな言葉を捨てて
君は君の言葉で
歌うことができる

目の前に何者かに
決して媚びて歌を売るな
遥か未来で聴くはずの
尊い誰かのために歌え

いつか君の歌が遥か
時を超えて響くために
その遠い遠い未来へ
必ず届くように歌え

君は君の言葉で歌え
自分の声で泣きたいなら
僕は僕の言葉で歌う
自分の声で泣きたいから

君は祈ることができる
愛する人のために
見知らぬ誰かのために
自分以外のすべてのために

君は祈ることができる
傷ついた人のために
傷つけた人のために
それを恨む人のために


(後略)

2014年8月24日日曜日

Vacances d'été

夏休み。
留学先から一時帰国している娘。

先輩ダンサーの舞台を観にいったり、高校の先生に挨拶に行ったり、陸上部に顔を出したり、同級生とプチ旅行したり、幼馴染みとご飯食べたり、と忙しい。久しぶりの故郷が楽しくてしょうがない、という様子だったが、それも2週間くらい。3週めに突入した現在はもう飽きてしまって「早よ学校に戻りたいわあ〜」などとやたらつぶやく始末。
ほげーと過ごせばいいのにじっとしていられない性分で、毎日、人に会うか街へ出るかしてちっとも家でゆっくりなんかしていない。誰に似たんだか。母は暇さえあればごろ寝を決め込むというのに。

友達とご飯食べてたら口の中でガチッと音がして、何かと思えば奥歯が欠けた、という。生まれてこのかた虫歯ゼロを誇って来た娘だが、とうとう、削って銀歯を補填する羽目になった。いままで歯に何も問題なかったのは幸運に尽きるが、きっとこれから先はけっこう歯のトラブルに悩まされるに違いない。なんつっても私の娘だからな。

私は幼い頃からしょっちゅう歯医者通いをしていた。歯並びはすこぶる悪く、きれいに並んでいない歯はお約束のように必ず虫歯になり、ある日突然欠ける。大人になってからもそんな生活を繰り返した。私は乳製品が嫌いだし、カルシウムが大きく不足していたかもしれないが、こと歯磨きにかんしては真面目にきちんと取り組んでいたはずだった。なのに、私の歯と歯茎はいつもとても不健康なのだった。
痛みを感じて歯医者を受診するたびに、歯周病の恐怖を説かれ、定期検診の必要性を説かれた。でも私は定期的に歯医者ヘ行くなんてまっぴらだった(みんなそうよね?)。そういう心がけだとじきに歯周病になるぞとイケズな歯科医にいわれつづけたけど、いままでなってないもんね。
20年くらい前に「10年後くらいには総入れ歯を覚悟してください」なんていわれて、その「10年後」が到来したときは「このままだっとあっという間に総入れ歯ですよ」といわれた。しかし、それからさらに10年経った今、歯科医は既存の歯の健康を維持するために「部分入れ歯」の導入を薦めた。でも、いくら「部分」でも、「歯を付け外しする」という行為だけで一気に老け込みそうだ。そう思ってそのとおりのことを述べる。
「歯を付け外しするのって、ちょっとまだやりたくない気分かな……若ぶる気はありませんけど」
「だろうね。だよね」
「この次、もうにっちもさっちもいかなくなったら部分入れ歯でも総入れ歯でも、諦めます」
「そうだね。今回部分入れ歯は廃案、ブリッジにしましょう」

歯の治療の顛末は、昔話も含めて娘によく話して聞かせた。そのたび娘はフンと鼻で笑って「おきのどく〜」などとつぶやく。おい、きみにもこういう運命が待ち受けているかもしれないのだぞ。
「なんやかんやいうてもけっきょく入れ歯してへんやん。まだイケてるってことやん。若いっていうことやん」と激励のような慰めのようなセリフを吐いたあと、「そやし、ウチも大丈夫やわ、絶対」と自信たっぷり。

しっかり噛む。人間はその体力・体格をしっかり噛んで食うことで維持している。噛んで砕いて、飲み込む。噛んで砕くことをおろそかにしたら飲み込む時につっかえる。無理に飲み込んだら内蔵が消化吸収するのに差し障る。
「噛む」は基本であり、最重要アクションである。歯の丈夫な人は健康で長生きだし、すぐれたアスリートはきっと頑丈な歯を維持しているだろう。
現在娘は腹八分目を心がけていることもあるが、食事の量は少ない。だが、非常によく噛んで食べる習慣が身についているので、わずかな量の食事を長い時間かかって食べることになる。娘がまだ小学生のときは、クラスメートが残す給食も全部引き受けるほど大食いだった。また、(これは日本の公教育の多大な欠陥だと思うが)昼食時間が非常に短く、早く遊びに行きたいこともあって、ぱくぱくぱくごくごくごくっと食べていたようである。私が口うるさく「よう噛みや」と呪文のように唱え続ける家での食事も、娘は早く食べていた。だが中学生になり体がどんどん成長してくると、早食いは太ると誰かに吹き込まれたのか、大食いながらゆっくり食べるようになった。するとほんとうに体はムキムキ隆々と成長し、まさにひと噛みひと噛みが血肉になっていた。惚れ惚れするような筋肉が、全身を覆っていた。

残念ながらムキムキ筋肉マンのような体はバレリーナには必要ないので、高校生になって娘はダイエットを敢行した。極端に食事を減らしたが、栄養欠如にならないように食品を厳選して、そしてやはりよく噛み、体のすみずみまで送り込むように、ゆっくり食べた。
ひと口ひと口を大切に、食べた。
おかげで、拒食症だとか、精神を病んでしまうといった極端なダイエットにありがちな副作用には遭わずに済んだ。それは本当によかったと思っている。
しかし、やはり痩せたことで体全体の「巡り」が衰えた。冷えがちになり、しもやけなど血行の悪いことが原因で起こる現象が頻発し、症状もひどかった。免疫能も低下し、感染性の外傷は容易に悪化した。今、娘には、食事制限は御法度で、きちんとバランスよく食事を摂ることが至上命令である。本当はスイーツ厳禁なのだが、10代女子にそれは不可能(笑)ということで、ちゃんと栄養たっぷりの食事をすることを守るなら少しは食べてもいい、ということになっている。

歯を大切にして、健康な歯でひと噛みひと噛み大事に食べて、摂った栄養を無駄なく体力と体格の糧にしよう。明日の君は今日食べたものでできているのだ。だからホンマに虫歯には気をつけてな。

2014年7月7日月曜日

Les petits rats 6


ある年の発表会楽屋風景。舞台メイクは、中学1年生になったら自分で行うよう指導を受ける。それまでは、教室の講師陣が子どもたちの顔をひたすら「描き、造る」。なかなかスゴイ顔になるのだが、舞台に立つとそれほどコテコテに描いているようには見えないから不思議だ。ただし、子どもたちはそれぞれぐっとその母親の顔に近づいて見える。「そっくりやね」と、母親たちはお互いを慰めるでも納得させるでもない、なんだか中途半端な共感と連帯感を覚えるのであった(笑)。

1枚めの写真で娘のメイクをしてくれている講師は、バレエ学校を卒業後すぐ当教室でレッスンを受けながら指導助手を務め、バレエ教師としての経験を積んできた人だ。緩急を使い分け、子どもたちをよく笑わせ、叱るときはびしっと容赦ない。教師としてもダンサーとしても一貫した考えを持っていて、それは学園長である自分の恩師と食い違うことも時にはあったようだが、意見は意見として述べても師の影はけっして踏まない人だった。だから学園長も彼女を重宝し、可愛がった。もちろん、生徒にも慕われた。
娘もこの講師が大好きだった。いつか、娘を評して「すごく、わかってくれるんですよ。私の指摘したことの真意とか、私の言いかたがマズくて伝わらないんじゃないかと思ったときも、ちゃんと意図を読み取って、理解してくれる。そして次に動いたときにはその結果をすぐ出してくれます」と言ってくれた。いいことばかりを過大に述べられたとしても、親は嬉しい。娘に伝えると「先生も、ウチが訊きたいこと、全部言わんでもわかってくれはる。どう動いたらいいか、今の動きのなにが悪いんか、訊きたいけどうまく言葉を組み立てられへん時あるねん。でもみなまでいわんでもわかってくれはって、教えてくれはる」という。なるほど、キミタチ、以心伝心。相思相愛(笑)。

娘は出発前、この講師の舞台を最後に見て涙が止まらなかったと言った。ほかの先生との別れは辛くないけど……。講師は離島の出身で、昨年度限りで教室を退職し、故郷で自分のバレエ教室を開業する運びとなったのだった。昨秋、その計画を公にする前に、日本を離れるうちの娘にはこっそり告げて、「もうこの教室では教えていないけど、たまには戻って先生たちに顔を見せたげてね。そして私の教室も覗きにきて」

結婚や出産、あるいは新天地を求めて去っていった先生たち。みんな若く美しい女性たちだ。その20代、30代の輝きを増すばかりの時間を躾のなってないワガママな子どもたちを教えることに費やし、時には親たちの苦情や陳情(?)にも対応し、人生何事も経験とはいえ並大抵ではなかったことだろう。去っていかれた先生たちも、今も教え続ける先生たちも、それぞれが幸せであってほしいと思わずにいられない。講師たちの振る舞いや生きかた、踊りに向かう姿勢はそっくりそのまま子どもたちにとって最も身近な手本であり、事例集でもある。感化されやすいうちの娘などは幾度も「○○先生みたいになる」と誓いを立てた。ある重要なタイミングでドンピシャなアドバイスや叱咤を受けると、いつまでも心に残る。故郷へ戻った講師は、幾つもの至言を娘に残したという。ただ娘がいうには、それほど重要な言葉を相手に向かって投げたとは「たぶん意識したはらへん」そうだ。

効果的な指導とは得てしてそんなものかもしれない。大上段に構えて「どうだこれから大事なことを教えてやるぞ、よく聞けよ」みたいな物言いで臨むと弟子は逃げる。というより、そんなものは師弟関係ではない。師であり弟子であるというのは、お互いに腹を探っているとでもいおうか、そのココロは、その真意はと、お腹の裏側を読み取ろう、その言葉の行間を吸収しようと、ある一定の距離を保ったまま、互いを信じることである。多分に弟子のほうが一方的な片思いであるけれども、自分を信じる弟子に師は応えようとするものである。弟子にとって師の言葉は、それが戯れ言やオヤジギャグでも信じられる。ヒントになる。そして自身に反映できたとき、弟子であることを実感できる。

バレエなど身体系のお稽古事では、小学生のうちはこうした「師弟関係」がごくごくシンプル&ピュアに形成されている。だから子どもたちは素直にすくすく伸びていくのである。講師の優劣よりも、どちらかというと子どもたちの素直さ、伸びしろの大きさがものをいう。一心に打ち込み、先生みたいになりたいとわかりやすい夢を描くことが、最大の糧なのだ。

願わくば、場所が変わっても、自分にとって最良の師といえる人と再び出会い、師から可能な限り吸収して成長の糧にしてほしいもんだ。

2014年6月29日日曜日

Talk to her

ダンスを題材にした映画は数知れずあり、昔から好んで観てきた。いちばん古い記憶は『サタデーナイトフィーバー』だ。ジョン・トラボルタ演じる主人公には全然共感しなかったし、彼をカッコいいと一瞬でも思ったことはなかったが、映画そのものはとても好きだった。というより、映画を観ているあいだ、ずっとビージーズの音楽を聴きっぱなし状態になるということもあって、あれでビージーズのファンになった人は多いと思う。この映画に限っていえば、「『サタデーナイトフィーバー』が好き」と言うことは「ストーリーよりも音楽が好きだ」と言うのと同義といっていいだろう。私は中学生で、ちょうど外国のポップスに目覚め始めた頃で、手当り次第にいろいろなミュージシャンを聴きあさっていたところ、ビージーズはドンピシャではまった。今でも数枚のLPレコードを大切に持っている。そして『サタデーナイトフィーバー』の物語は全然覚えていない。
一躍スターになったトラボルタはこともあろうに世界のアイドルだったオリヴィア・ニュートンジョンと『グリース』で共演した。私の周囲にはオリヴィアに入れ込んでいる男子がちらほらいたような気がする。女子にも好きだという子は多かった。しかし私は例によってまったく関心がなかった。あつくるしいトラボルタと小じわだらけのニュートンジョンが高校を舞台にした青春ものミュージカル映画で高校生カップルを演じるなんて冗談はやめてくれと思ったが、けっきょく、この映画もすごくすごく好きだった。当時高校生だったので、『サタデーナイトフィーバー』とは違って人物の心理描写が直接胸に響いた。体育の授業で班別創作ダンス発表というのがあったが、私たちの班は『グリース』のクライマックスの曲を使い、振り付けも部分的に拝借して完成させた。当時はそこまでやる生徒は多くなかったし、なんといっても体操服(ジャージ)で踊るんだからパフォーマンス性は知れているけれども。しかし、楽しかった。ああ懐かしい(笑)。
そういえば娘も体育の授業で踊ると言ってたことがあったっけ。今はダンスが体育の必修単元になっているし、踊ることじたい、私たちの十代の頃のように大人の薫りのするものでは全然ないので、娘たちには力みもなければ非日常性を感じるふうもないのであった。

エアロビクスなるものが上陸した頃、『フラッシュダンス』が大ヒットした。ジェニファ・ビールスが可愛らしかったが、吹き替えと特撮の利用があまりにもはっきりわかるずさんさで、ダンスシーンはなかなか感動するのが難しかった。つまり興醒めだった。最初からそういうものだと思って観ればよかったんだな、たぶん。
ダンスとそれにまつわる物語を中心に据えたサクセスストーリー風の筋立てだと、やはりダンスの技術的なことが制作上の壁というかハードルになるから、プロによる吹き替えもやむを得ないということは、観客はわきまえておかないといかんだろうな。いわき市の実話をもとにした『フラガール』でも主役級のダンスシーンは吹き替えだったが、こちらはそれとはわからないように綺麗に撮られていた。松雪さんも蒼井優ちゃんもほんまにフラダンサーのようで、見応えがあった。
だが、「ダンスとそれにまつわる物語を中心に据えたサクセスストーリー風」映画でないなら、挿入するダンスシーンは最初からプロが出ればいいのであり、プロの作品を使えば説得力が増すのである。

ペドロ・アルモドヴァルの映画をこよなく愛する私は彼の作品を欠かさず観ようとつねに情報収集しているのだが、いかんせん大きな館にはかからない。京都では小さな館でもなかなかかからない。なぜ? なぜなぜなぜ??? しょうがないから、たとえば大阪の小さな館での上映機会など、数少ないチャンスをモノにしようともがくけれど、子育て真っ最中の身ではこれが容易ではない。思えば、映画を観にいくといえばスーパー戦隊シリーズか仮面ライダーシリーズかプリキュアシリーズだけ、という時期を経て、ドラえもんなどのアニメ、ハリウッド製の子ども向け映画、児童文学を下敷きにした洋画などに限定されていた。性的倒錯ものとか第二次大戦の傷跡ものとかディアスポラの悲哀的なものとかブラックコメディなどはやはり子連れでは観にいけないのであった。ペドロの作品はそんなわけでレンタル屋にDVDが登場し、旧作となってから観るしかなかった。子どもが寝静まってから夜中にひとりで観るのである。といって、私はこれがけっこう気に入っていたが(笑)。

2002年制作の『トーク・トゥー・ハー』を、やっと自宅のDVDプレイヤーにかけて観たのはいつだっただろうか。ひとりでこっそり観たので娘はまだ幼かったと思うのだが。
最初と最後にウッパダール舞踊団の舞台が使われている。冒頭は「カフェ・ミュラー」のワンシーンだ。当時の私はそんな舞踊作品のことは何も知らなかった。ただ、この映画にピナ・バウシュも登場するとは予備知識で知っていたのでそのシーンを待った。あ、この人だ。そう思ったらすぐその場面は終わってしまった。終わってしまったが、わずかな時間の中で強烈に感じたのは「体を意識することなく自在に操っている」ことだ。娘をバレエ教室に通わせながらつくづく感じたことのひとつが、「感情表現は意識しなければできないが、体を操作するテクニックは意識しているうちはできない」ということだ。ほんとうに上手に、綺麗に体を使って踊れる子は、手足の上げ下げなどをはじめとする動作そのものを強く意識することなく、体の中から動かせるのである。力みがなく、自然だが、普通の人にはできないことなのだ。
「カフェ・ミュラー」の女たちは目を閉じて憑かれたように歩いては壁にはりつき、手足を不規則に上げ下げする。その動きは奇抜でもなく美しくもないのに、舞台全体が超然としていて、釘付けにされる。何が起こるかわからないから一瞬も目を離せないのだ。

自在に体を操る女たちと、昏睡状態に陥って植物人間と化した女たち。
自在に体を操るダンサーが演じているのは目を閉じた女たちだ。彼女たちの動きを遮る椅子を、男が次々と退けていく。見えなくても女が好きに歩けるように。
植物状態となったそれぞれの女の周囲で、うろたえる男たちを尻目にただひとり、患者への深い愛情を支えに献身的な看護をする男。映画は彼の深すぎる愛とそれゆえの絶望を描いている。最後に挿入されるウッパダール舞踊団の舞台が、残された登場人物たちの未来への希望を映している。ペドロの映画はいつも、これでもかというほどの悲劇が幾重にも重なりもう救われない気分にされながら、必ず一筋の光を観客の心に差して終わる。生きていてよかった、生きていこう、という気にさせられる。
スペインの映画だけれど、スペインだからって安易にフラメンコ系のダンスを使わなかったところがいい。だってもうひとつの要素は闘牛だし、闘牛とフラメンコという王道でいっちゃうとコテコテになってしまったな、たぶん。

まさかピナ・バウシュがそんなに早く亡くなるとは思っていなかった。『トーク・トゥー・ハー』の冒頭は、とても心に残ったダンスシーンだったのに、私はその後ピナをとくべつに追いかけようとはしなかった。そしてそのまま、もう彼女の踊りを観ることは不可能になってしまった。人生、悔やんでも悔やみきれないことは多々あるが、ピナ・バウシュを観なかったこともそのひとつだ。観たいものはすぐにでも観ておかなくてはならない。ヴェンダースの『ピナ』を観て、つくづく思った。

2014年6月18日水曜日

L'intention de l'auteur est strictement respectée.

自慢じゃないけどヴィム・ヴェンダースにインタビューしたことがある(自慢だけど。笑)。とはいってももう16、7年前のことだ。偉大な映画人であり、当時の日本でもすでに著名な人であった。と、こんな書きかたをするのは、すぐれた映画をつくる人が著名であるとは限らないからだ。とりわけ日本では、出演俳優ばかりにスポットがあたり、つくる人、描く人はどうも裏方扱いされる傾向にある。ここ数年、ようやく監督の名前が先行する映画が出始めたように思うけれども。
それはともかく、ドイツ人映画監督で誰を思い浮かぶ?と訊かれて「ヴィム・ヴェンダース」と答える人がそれほどいるとは思えない。といってほかの監督の名前を挙げられるか? フリッツ・ラングやペーターセン。え、ドイツ人だったの?なんて声も聞こえてきそうだ。なんてこと、と嘆く映画ファンもいるだろうけれど、知らないということ、関心がないということはこういうことなのだ。
『パリ、テキサス』で日本の一般映画ファンの心もとらえたヴェンダースだが、観客はこの映画を観る時に撮ったのがドイツ人映画監督であるという知識は必要ない(ほんとはそのへん意識したいんだけどさ)。映画にドイツは全然出てこないからだ。極端な大ヒット作『ベルリン 天使の詩』によってその名声は世界中に轟いて、ヴェンダースは世界のあちこちを舞台に独特の視点で作品を撮るドイツ人映画監督だと、日本でもようやく認識されるようになったのではないか。というより、映画関係者にとって「神」に近い存在となって初めて、一般人にとっての「あ、その映画監督知ってるよ」くらいの著名な映画監督となる、といってもいいだろう。

97年、大阪で開催される映画祭の特別ゲストとしてヴェンダースが来る、と聞き私は小躍りした。私も単なる一般映画ファンなので、ヴェンダースについては何も知らなかった。『パリ……』と『ベルリン……』を観ただけだ。だけだが、元来アンデパンダンな映画を愛好する者にとってやはりこれらの作品は革命的な存在だった。
さらには、やはりつくる人の話はなにがなんでも聴きたい、という欲求があった。
大阪の映画祭の機会には何度か監督や撮影カメラマンの取材をしたが、つくり手の話を実際に聴くと映画というものへの愛が一気に深まるのを実感した。スクリーンの向こう側に敷かれた幾重ものつくり手たちの意図が映画を醸成しているかと思うと、その厚みや織りに思いが延びて感動が膨らむ。そんな経験から、ヴェンダースが大阪に来るなら絶対に話を聴きたい! と思ったのだったが。

「俺たちのために時間なんて取れないって」と編集長。映画祭主宰者側からの連絡は「無理」だった。主宰者は編集長と友達なのに。「なんとかならないのかなあ」と私。
『ベルリン……』のあと、日本における上映ではメガヒットを記録したものはないのに、彼が来日するとなるとそれはもうVIP中のVIP、破格の扱いだった。TVや大新聞、専門誌の取材が目白押しだった。はあ〜、観客として舞台挨拶を観る程度かあ。
しかし、朗報来たる! 「××TVの番組撮影の直前に数分間取ってくれることになったよ」。やった!
「俺、その日は行けないから、行ってくれよ」と編集長。「へ?」と私。「ヴェンダースのいい表情も、撮ってこいよ」「へ? 私ひとりで行くの? え、でも何語で話すの、私、英語できないよ」「ヴェンダースはフランス語ペラペラだよ」
いや、だからって、そんなビッグゲストにひとりでなんて……と大喜びしたのも束の間、大きな不安に苛まれる私。編集長は愉快そうに笑って「心配すんなよ。インタビュアーはもうひとりいるからさ」

もうひとりのインタビュアーはパリ在住の大学院生だった。日本人女性で、映画論だかなにかを研究している。そんな学問が成立するのね。研究論文執筆のために、映画のつくり手を直接訪ねて取材を重ねていた。ちょうど帰省するのと、ヴェンダースの来日とのタイミングが合い、こちらの取材に同行できることになったのだ。
事前に彼女がヴェンダースに訊ねたいことをリストアップしてきた。時間がないので話をどんどん突っ込んでいくわけにはいかない。しかし、もう二度とない機会だろうからこれだけは訊きたい、という彼女の意向は尊重したかった。回答の内容も想定し、こうきたらこう訊く、そう答えたらこっちへ転換、みたいな「予行演習」もした。
しかし、多くの場合そんなものは当日実際に相手と対峙すると吹っ飛んでしまうのだ。

当日、ヴェンダースの宿泊するホテルのロビーヘ行くと、映画祭実行委員長が私たちに「7分間」と言った。みじかっ。「君たちが取材している間、TVのクルーが機材のセッティングでガチャガチャやるけど、我慢してくれよな」

取材用の部屋ヘ行く。待つこと数分。ヴィム・ヴェンダースが実行委員長と一緒にやってきた。私たちは簡単に自己紹介をした。ヴェンダースは彼女に向かって「パリで映画の研究をしてるの? テーマは何?」なんてのんびり話しかける。彼女はその問いに手短に答えたあと「すみません、ムッシュー。時間がありません」「え、そうなの? 何分間?」「7分です」「おやおや」
私はすでに柔和なヴェンダースの横顔に向かってシャッターを切り続けていた。
心得たヴェンダースはこちらの問いに的確に明快に答えてくれ、その答えに対してインタビュアーがさらに質問を重ねてくるだろうことも想定して話を続けてくれた。取材慣れしているといえばそれまでだが、私たちのような学生と素人に対し、映画人としての自分の立ち位置、自分が映画を撮る意味、映画界になお残る悪弊などあますところなく語ってくれたのである。7分の間に。

《ヨーロッパの映画はアンデパンダン(独立している)です。作家の意図は完全に尊重されます。》

映画には巨額の製作費がかかる。映画のつくり手はスポンサーの意向を無視してはつくれないとしても、誰がそのことを責められるだろうか。しかしヴェンダースは、資金提供の源がどこであれ、それがいくらであれ、それに左右されるものはアンデパンダンではないと断言する。ヨーロッパでは当時すでに国境を越えた合作映画が盛んに製作されていたが、それじたいは喜ばしいことであり、いずれ国籍など問われることのない時代が来るだろう、とも言っていた。そのいっぽう、規模が大きくなり過ぎて、またスポンサーへの気遣いから作家が自分の表現を見失うとアンデパンダンに逆行する。そのとき「作家はアイデンティティを失います」

なぜ、ヴィム・ヴェンダースとの7分間を思い出したかというと、最近『Pina』のDVDを借りて観たからだ。

ピナ・バウシュの踊りはとてつもない。ピナはそれまでのダンスの常識を次々に破った人だ。ピナのもとで踊るダンサーたちの肉体の迫力にも圧倒される。
しかし、激しく奇妙な振り付け、予想を裏切る演出の続く舞台はたしかにエモーショナルだが、その映像の素材感、構成や撮影手法がたいへん「ヴェンダース的」で、あまりの懐かしさに胸がいっぱいになったのだった。静かな、ピナ・バウシュ追悼の映画だった。ピナもまた、意志を貫き通した表現者だった。ヴィム・ヴェンダースは、いち表現者としてピナ・バウシュの創作への姿勢に通底を感じていた。映画には、同志をなくしたヴェンダースの悲しみが満ちてスクリーンからつつつ、とこぼれるかのような、そんな湿度が感じられる。