夏休み。
留学先から一時帰国している娘。
先輩ダンサーの舞台を観にいったり、高校の先生に挨拶に行ったり、陸上部に顔を出したり、同級生とプチ旅行したり、幼馴染みとご飯食べたり、と忙しい。久しぶりの故郷が楽しくてしょうがない、という様子だったが、それも2週間くらい。3週めに突入した現在はもう飽きてしまって「早よ学校に戻りたいわあ〜」などとやたらつぶやく始末。
ほげーと過ごせばいいのにじっとしていられない性分で、毎日、人に会うか街へ出るかしてちっとも家でゆっくりなんかしていない。誰に似たんだか。母は暇さえあればごろ寝を決め込むというのに。
友達とご飯食べてたら口の中でガチッと音がして、何かと思えば奥歯が欠けた、という。生まれてこのかた虫歯ゼロを誇って来た娘だが、とうとう、削って銀歯を補填する羽目になった。いままで歯に何も問題なかったのは幸運に尽きるが、きっとこれから先はけっこう歯のトラブルに悩まされるに違いない。なんつっても私の娘だからな。
私は幼い頃からしょっちゅう歯医者通いをしていた。歯並びはすこぶる悪く、きれいに並んでいない歯はお約束のように必ず虫歯になり、ある日突然欠ける。大人になってからもそんな生活を繰り返した。私は乳製品が嫌いだし、カルシウムが大きく不足していたかもしれないが、こと歯磨きにかんしては真面目にきちんと取り組んでいたはずだった。なのに、私の歯と歯茎はいつもとても不健康なのだった。
痛みを感じて歯医者を受診するたびに、歯周病の恐怖を説かれ、定期検診の必要性を説かれた。でも私は定期的に歯医者ヘ行くなんてまっぴらだった(みんなそうよね?)。そういう心がけだとじきに歯周病になるぞとイケズな歯科医にいわれつづけたけど、いままでなってないもんね。
20年くらい前に「10年後くらいには総入れ歯を覚悟してください」なんていわれて、その「10年後」が到来したときは「このままだっとあっという間に総入れ歯ですよ」といわれた。しかし、それからさらに10年経った今、歯科医は既存の歯の健康を維持するために「部分入れ歯」の導入を薦めた。でも、いくら「部分」でも、「歯を付け外しする」という行為だけで一気に老け込みそうだ。そう思ってそのとおりのことを述べる。
「歯を付け外しするのって、ちょっとまだやりたくない気分かな……若ぶる気はありませんけど」
「だろうね。だよね」
「この次、もうにっちもさっちもいかなくなったら部分入れ歯でも総入れ歯でも、諦めます」
「そうだね。今回部分入れ歯は廃案、ブリッジにしましょう」
歯の治療の顛末は、昔話も含めて娘によく話して聞かせた。そのたび娘はフンと鼻で笑って「おきのどく〜」などとつぶやく。おい、きみにもこういう運命が待ち受けているかもしれないのだぞ。
「なんやかんやいうてもけっきょく入れ歯してへんやん。まだイケてるってことやん。若いっていうことやん」と激励のような慰めのようなセリフを吐いたあと、「そやし、ウチも大丈夫やわ、絶対」と自信たっぷり。
しっかり噛む。人間はその体力・体格をしっかり噛んで食うことで維持している。噛んで砕いて、飲み込む。噛んで砕くことをおろそかにしたら飲み込む時につっかえる。無理に飲み込んだら内蔵が消化吸収するのに差し障る。
「噛む」は基本であり、最重要アクションである。歯の丈夫な人は健康で長生きだし、すぐれたアスリートはきっと頑丈な歯を維持しているだろう。
現在娘は腹八分目を心がけていることもあるが、食事の量は少ない。だが、非常によく噛んで食べる習慣が身についているので、わずかな量の食事を長い時間かかって食べることになる。娘がまだ小学生のときは、クラスメートが残す給食も全部引き受けるほど大食いだった。また、(これは日本の公教育の多大な欠陥だと思うが)昼食時間が非常に短く、早く遊びに行きたいこともあって、ぱくぱくぱくごくごくごくっと食べていたようである。私が口うるさく「よう噛みや」と呪文のように唱え続ける家での食事も、娘は早く食べていた。だが中学生になり体がどんどん成長してくると、早食いは太ると誰かに吹き込まれたのか、大食いながらゆっくり食べるようになった。するとほんとうに体はムキムキ隆々と成長し、まさにひと噛みひと噛みが血肉になっていた。惚れ惚れするような筋肉が、全身を覆っていた。
残念ながらムキムキ筋肉マンのような体はバレリーナには必要ないので、高校生になって娘はダイエットを敢行した。極端に食事を減らしたが、栄養欠如にならないように食品を厳選して、そしてやはりよく噛み、体のすみずみまで送り込むように、ゆっくり食べた。
ひと口ひと口を大切に、食べた。
おかげで、拒食症だとか、精神を病んでしまうといった極端なダイエットにありがちな副作用には遭わずに済んだ。それは本当によかったと思っている。
しかし、やはり痩せたことで体全体の「巡り」が衰えた。冷えがちになり、しもやけなど血行の悪いことが原因で起こる現象が頻発し、症状もひどかった。免疫能も低下し、感染性の外傷は容易に悪化した。今、娘には、食事制限は御法度で、きちんとバランスよく食事を摂ることが至上命令である。本当はスイーツ厳禁なのだが、10代女子にそれは不可能(笑)ということで、ちゃんと栄養たっぷりの食事をすることを守るなら少しは食べてもいい、ということになっている。
歯を大切にして、健康な歯でひと噛みひと噛み大事に食べて、摂った栄養を無駄なく体力と体格の糧にしよう。明日の君は今日食べたものでできているのだ。だからホンマに虫歯には気をつけてな。
2014年8月24日日曜日
2014年7月7日月曜日
Les petits rats 6
ある年の発表会楽屋風景。舞台メイクは、中学1年生になったら自分で行うよう指導を受ける。それまでは、教室の講師陣が子どもたちの顔をひたすら「描き、造る」。なかなかスゴイ顔になるのだが、舞台に立つとそれほどコテコテに描いているようには見えないから不思議だ。ただし、子どもたちはそれぞれぐっとその母親の顔に近づいて見える。「そっくりやね」と、母親たちはお互いを慰めるでも納得させるでもない、なんだか中途半端な共感と連帯感を覚えるのであった(笑)。
1枚めの写真で娘のメイクをしてくれている講師は、バレエ学校を卒業後すぐ当教室でレッスンを受けながら指導助手を務め、バレエ教師としての経験を積んできた人だ。緩急を使い分け、子どもたちをよく笑わせ、叱るときはびしっと容赦ない。教師としてもダンサーとしても一貫した考えを持っていて、それは学園長である自分の恩師と食い違うことも時にはあったようだが、意見は意見として述べても師の影はけっして踏まない人だった。だから学園長も彼女を重宝し、可愛がった。もちろん、生徒にも慕われた。
娘もこの講師が大好きだった。いつか、娘を評して「すごく、わかってくれるんですよ。私の指摘したことの真意とか、私の言いかたがマズくて伝わらないんじゃないかと思ったときも、ちゃんと意図を読み取って、理解してくれる。そして次に動いたときにはその結果をすぐ出してくれます」と言ってくれた。いいことばかりを過大に述べられたとしても、親は嬉しい。娘に伝えると「先生も、ウチが訊きたいこと、全部言わんでもわかってくれはる。どう動いたらいいか、今の動きのなにが悪いんか、訊きたいけどうまく言葉を組み立てられへん時あるねん。でもみなまでいわんでもわかってくれはって、教えてくれはる」という。なるほど、キミタチ、以心伝心。相思相愛(笑)。
娘は出発前、この講師の舞台を最後に見て涙が止まらなかったと言った。ほかの先生との別れは辛くないけど……。講師は離島の出身で、昨年度限りで教室を退職し、故郷で自分のバレエ教室を開業する運びとなったのだった。昨秋、その計画を公にする前に、日本を離れるうちの娘にはこっそり告げて、「もうこの教室では教えていないけど、たまには戻って先生たちに顔を見せたげてね。そして私の教室も覗きにきて」
結婚や出産、あるいは新天地を求めて去っていった先生たち。みんな若く美しい女性たちだ。その20代、30代の輝きを増すばかりの時間を躾のなってないワガママな子どもたちを教えることに費やし、時には親たちの苦情や陳情(?)にも対応し、人生何事も経験とはいえ並大抵ではなかったことだろう。去っていかれた先生たちも、今も教え続ける先生たちも、それぞれが幸せであってほしいと思わずにいられない。講師たちの振る舞いや生きかた、踊りに向かう姿勢はそっくりそのまま子どもたちにとって最も身近な手本であり、事例集でもある。感化されやすいうちの娘などは幾度も「○○先生みたいになる」と誓いを立てた。ある重要なタイミングでドンピシャなアドバイスや叱咤を受けると、いつまでも心に残る。故郷へ戻った講師は、幾つもの至言を娘に残したという。ただ娘がいうには、それほど重要な言葉を相手に向かって投げたとは「たぶん意識したはらへん」そうだ。
効果的な指導とは得てしてそんなものかもしれない。大上段に構えて「どうだこれから大事なことを教えてやるぞ、よく聞けよ」みたいな物言いで臨むと弟子は逃げる。というより、そんなものは師弟関係ではない。師であり弟子であるというのは、お互いに腹を探っているとでもいおうか、そのココロは、その真意はと、お腹の裏側を読み取ろう、その言葉の行間を吸収しようと、ある一定の距離を保ったまま、互いを信じることである。多分に弟子のほうが一方的な片思いであるけれども、自分を信じる弟子に師は応えようとするものである。弟子にとって師の言葉は、それが戯れ言やオヤジギャグでも信じられる。ヒントになる。そして自身に反映できたとき、弟子であることを実感できる。
バレエなど身体系のお稽古事では、小学生のうちはこうした「師弟関係」がごくごくシンプル&ピュアに形成されている。だから子どもたちは素直にすくすく伸びていくのである。講師の優劣よりも、どちらかというと子どもたちの素直さ、伸びしろの大きさがものをいう。一心に打ち込み、先生みたいになりたいとわかりやすい夢を描くことが、最大の糧なのだ。
願わくば、場所が変わっても、自分にとって最良の師といえる人と再び出会い、師から可能な限り吸収して成長の糧にしてほしいもんだ。
2014年6月29日日曜日
Talk to her
ダンスを題材にした映画は数知れずあり、昔から好んで観てきた。いちばん古い記憶は『サタデーナイトフィーバー』だ。ジョン・トラボルタ演じる主人公には全然共感しなかったし、彼をカッコいいと一瞬でも思ったことはなかったが、映画そのものはとても好きだった。というより、映画を観ているあいだ、ずっとビージーズの音楽を聴きっぱなし状態になるということもあって、あれでビージーズのファンになった人は多いと思う。この映画に限っていえば、「『サタデーナイトフィーバー』が好き」と言うことは「ストーリーよりも音楽が好きだ」と言うのと同義といっていいだろう。私は中学生で、ちょうど外国のポップスに目覚め始めた頃で、手当り次第にいろいろなミュージシャンを聴きあさっていたところ、ビージーズはドンピシャではまった。今でも数枚のLPレコードを大切に持っている。そして『サタデーナイトフィーバー』の物語は全然覚えていない。
一躍スターになったトラボルタはこともあろうに世界のアイドルだったオリヴィア・ニュートンジョンと『グリース』で共演した。私の周囲にはオリヴィアに入れ込んでいる男子がちらほらいたような気がする。女子にも好きだという子は多かった。しかし私は例によってまったく関心がなかった。あつくるしいトラボルタと小じわだらけのニュートンジョンが高校を舞台にした青春ものミュージカル映画で高校生カップルを演じるなんて冗談はやめてくれと思ったが、けっきょく、この映画もすごくすごく好きだった。当時高校生だったので、『サタデーナイトフィーバー』とは違って人物の心理描写が直接胸に響いた。体育の授業で班別創作ダンス発表というのがあったが、私たちの班は『グリース』のクライマックスの曲を使い、振り付けも部分的に拝借して完成させた。当時はそこまでやる生徒は多くなかったし、なんといっても体操服(ジャージ)で踊るんだからパフォーマンス性は知れているけれども。しかし、楽しかった。ああ懐かしい(笑)。
そういえば娘も体育の授業で踊ると言ってたことがあったっけ。今はダンスが体育の必修単元になっているし、踊ることじたい、私たちの十代の頃のように大人の薫りのするものでは全然ないので、娘たちには力みもなければ非日常性を感じるふうもないのであった。
エアロビクスなるものが上陸した頃、『フラッシュダンス』が大ヒットした。ジェニファ・ビールスが可愛らしかったが、吹き替えと特撮の利用があまりにもはっきりわかるずさんさで、ダンスシーンはなかなか感動するのが難しかった。つまり興醒めだった。最初からそういうものだと思って観ればよかったんだな、たぶん。
ダンスとそれにまつわる物語を中心に据えたサクセスストーリー風の筋立てだと、やはりダンスの技術的なことが制作上の壁というかハードルになるから、プロによる吹き替えもやむを得ないということは、観客はわきまえておかないといかんだろうな。いわき市の実話をもとにした『フラガール』でも主役級のダンスシーンは吹き替えだったが、こちらはそれとはわからないように綺麗に撮られていた。松雪さんも蒼井優ちゃんもほんまにフラダンサーのようで、見応えがあった。
だが、「ダンスとそれにまつわる物語を中心に据えたサクセスストーリー風」映画でないなら、挿入するダンスシーンは最初からプロが出ればいいのであり、プロの作品を使えば説得力が増すのである。
ペドロ・アルモドヴァルの映画をこよなく愛する私は彼の作品を欠かさず観ようとつねに情報収集しているのだが、いかんせん大きな館にはかからない。京都では小さな館でもなかなかかからない。なぜ? なぜなぜなぜ??? しょうがないから、たとえば大阪の小さな館での上映機会など、数少ないチャンスをモノにしようともがくけれど、子育て真っ最中の身ではこれが容易ではない。思えば、映画を観にいくといえばスーパー戦隊シリーズか仮面ライダーシリーズかプリキュアシリーズだけ、という時期を経て、ドラえもんなどのアニメ、ハリウッド製の子ども向け映画、児童文学を下敷きにした洋画などに限定されていた。性的倒錯ものとか第二次大戦の傷跡ものとかディアスポラの悲哀的なものとかブラックコメディなどはやはり子連れでは観にいけないのであった。ペドロの作品はそんなわけでレンタル屋にDVDが登場し、旧作となってから観るしかなかった。子どもが寝静まってから夜中にひとりで観るのである。といって、私はこれがけっこう気に入っていたが(笑)。
2002年制作の『トーク・トゥー・ハー』を、やっと自宅のDVDプレイヤーにかけて観たのはいつだっただろうか。ひとりでこっそり観たので娘はまだ幼かったと思うのだが。
最初と最後にウッパダール舞踊団の舞台が使われている。冒頭は「カフェ・ミュラー」のワンシーンだ。当時の私はそんな舞踊作品のことは何も知らなかった。ただ、この映画にピナ・バウシュも登場するとは予備知識で知っていたのでそのシーンを待った。あ、この人だ。そう思ったらすぐその場面は終わってしまった。終わってしまったが、わずかな時間の中で強烈に感じたのは「体を意識することなく自在に操っている」ことだ。娘をバレエ教室に通わせながらつくづく感じたことのひとつが、「感情表現は意識しなければできないが、体を操作するテクニックは意識しているうちはできない」ということだ。ほんとうに上手に、綺麗に体を使って踊れる子は、手足の上げ下げなどをはじめとする動作そのものを強く意識することなく、体の中から動かせるのである。力みがなく、自然だが、普通の人にはできないことなのだ。
「カフェ・ミュラー」の女たちは目を閉じて憑かれたように歩いては壁にはりつき、手足を不規則に上げ下げする。その動きは奇抜でもなく美しくもないのに、舞台全体が超然としていて、釘付けにされる。何が起こるかわからないから一瞬も目を離せないのだ。
自在に体を操る女たちと、昏睡状態に陥って植物人間と化した女たち。
自在に体を操るダンサーが演じているのは目を閉じた女たちだ。彼女たちの動きを遮る椅子を、男が次々と退けていく。見えなくても女が好きに歩けるように。
植物状態となったそれぞれの女の周囲で、うろたえる男たちを尻目にただひとり、患者への深い愛情を支えに献身的な看護をする男。映画は彼の深すぎる愛とそれゆえの絶望を描いている。最後に挿入されるウッパダール舞踊団の舞台が、残された登場人物たちの未来への希望を映している。ペドロの映画はいつも、これでもかというほどの悲劇が幾重にも重なりもう救われない気分にされながら、必ず一筋の光を観客の心に差して終わる。生きていてよかった、生きていこう、という気にさせられる。
スペインの映画だけれど、スペインだからって安易にフラメンコ系のダンスを使わなかったところがいい。だってもうひとつの要素は闘牛だし、闘牛とフラメンコという王道でいっちゃうとコテコテになってしまったな、たぶん。
まさかピナ・バウシュがそんなに早く亡くなるとは思っていなかった。『トーク・トゥー・ハー』の冒頭は、とても心に残ったダンスシーンだったのに、私はその後ピナをとくべつに追いかけようとはしなかった。そしてそのまま、もう彼女の踊りを観ることは不可能になってしまった。人生、悔やんでも悔やみきれないことは多々あるが、ピナ・バウシュを観なかったこともそのひとつだ。観たいものはすぐにでも観ておかなくてはならない。ヴェンダースの『ピナ』を観て、つくづく思った。
一躍スターになったトラボルタはこともあろうに世界のアイドルだったオリヴィア・ニュートンジョンと『グリース』で共演した。私の周囲にはオリヴィアに入れ込んでいる男子がちらほらいたような気がする。女子にも好きだという子は多かった。しかし私は例によってまったく関心がなかった。あつくるしいトラボルタと小じわだらけのニュートンジョンが高校を舞台にした青春ものミュージカル映画で高校生カップルを演じるなんて冗談はやめてくれと思ったが、けっきょく、この映画もすごくすごく好きだった。当時高校生だったので、『サタデーナイトフィーバー』とは違って人物の心理描写が直接胸に響いた。体育の授業で班別創作ダンス発表というのがあったが、私たちの班は『グリース』のクライマックスの曲を使い、振り付けも部分的に拝借して完成させた。当時はそこまでやる生徒は多くなかったし、なんといっても体操服(ジャージ)で踊るんだからパフォーマンス性は知れているけれども。しかし、楽しかった。ああ懐かしい(笑)。
そういえば娘も体育の授業で踊ると言ってたことがあったっけ。今はダンスが体育の必修単元になっているし、踊ることじたい、私たちの十代の頃のように大人の薫りのするものでは全然ないので、娘たちには力みもなければ非日常性を感じるふうもないのであった。
エアロビクスなるものが上陸した頃、『フラッシュダンス』が大ヒットした。ジェニファ・ビールスが可愛らしかったが、吹き替えと特撮の利用があまりにもはっきりわかるずさんさで、ダンスシーンはなかなか感動するのが難しかった。つまり興醒めだった。最初からそういうものだと思って観ればよかったんだな、たぶん。
ダンスとそれにまつわる物語を中心に据えたサクセスストーリー風の筋立てだと、やはりダンスの技術的なことが制作上の壁というかハードルになるから、プロによる吹き替えもやむを得ないということは、観客はわきまえておかないといかんだろうな。いわき市の実話をもとにした『フラガール』でも主役級のダンスシーンは吹き替えだったが、こちらはそれとはわからないように綺麗に撮られていた。松雪さんも蒼井優ちゃんもほんまにフラダンサーのようで、見応えがあった。
だが、「ダンスとそれにまつわる物語を中心に据えたサクセスストーリー風」映画でないなら、挿入するダンスシーンは最初からプロが出ればいいのであり、プロの作品を使えば説得力が増すのである。
ペドロ・アルモドヴァルの映画をこよなく愛する私は彼の作品を欠かさず観ようとつねに情報収集しているのだが、いかんせん大きな館にはかからない。京都では小さな館でもなかなかかからない。なぜ? なぜなぜなぜ??? しょうがないから、たとえば大阪の小さな館での上映機会など、数少ないチャンスをモノにしようともがくけれど、子育て真っ最中の身ではこれが容易ではない。思えば、映画を観にいくといえばスーパー戦隊シリーズか仮面ライダーシリーズかプリキュアシリーズだけ、という時期を経て、ドラえもんなどのアニメ、ハリウッド製の子ども向け映画、児童文学を下敷きにした洋画などに限定されていた。性的倒錯ものとか第二次大戦の傷跡ものとかディアスポラの悲哀的なものとかブラックコメディなどはやはり子連れでは観にいけないのであった。ペドロの作品はそんなわけでレンタル屋にDVDが登場し、旧作となってから観るしかなかった。子どもが寝静まってから夜中にひとりで観るのである。といって、私はこれがけっこう気に入っていたが(笑)。
2002年制作の『トーク・トゥー・ハー』を、やっと自宅のDVDプレイヤーにかけて観たのはいつだっただろうか。ひとりでこっそり観たので娘はまだ幼かったと思うのだが。
最初と最後にウッパダール舞踊団の舞台が使われている。冒頭は「カフェ・ミュラー」のワンシーンだ。当時の私はそんな舞踊作品のことは何も知らなかった。ただ、この映画にピナ・バウシュも登場するとは予備知識で知っていたのでそのシーンを待った。あ、この人だ。そう思ったらすぐその場面は終わってしまった。終わってしまったが、わずかな時間の中で強烈に感じたのは「体を意識することなく自在に操っている」ことだ。娘をバレエ教室に通わせながらつくづく感じたことのひとつが、「感情表現は意識しなければできないが、体を操作するテクニックは意識しているうちはできない」ということだ。ほんとうに上手に、綺麗に体を使って踊れる子は、手足の上げ下げなどをはじめとする動作そのものを強く意識することなく、体の中から動かせるのである。力みがなく、自然だが、普通の人にはできないことなのだ。
「カフェ・ミュラー」の女たちは目を閉じて憑かれたように歩いては壁にはりつき、手足を不規則に上げ下げする。その動きは奇抜でもなく美しくもないのに、舞台全体が超然としていて、釘付けにされる。何が起こるかわからないから一瞬も目を離せないのだ。
自在に体を操る女たちと、昏睡状態に陥って植物人間と化した女たち。
自在に体を操るダンサーが演じているのは目を閉じた女たちだ。彼女たちの動きを遮る椅子を、男が次々と退けていく。見えなくても女が好きに歩けるように。
植物状態となったそれぞれの女の周囲で、うろたえる男たちを尻目にただひとり、患者への深い愛情を支えに献身的な看護をする男。映画は彼の深すぎる愛とそれゆえの絶望を描いている。最後に挿入されるウッパダール舞踊団の舞台が、残された登場人物たちの未来への希望を映している。ペドロの映画はいつも、これでもかというほどの悲劇が幾重にも重なりもう救われない気分にされながら、必ず一筋の光を観客の心に差して終わる。生きていてよかった、生きていこう、という気にさせられる。
スペインの映画だけれど、スペインだからって安易にフラメンコ系のダンスを使わなかったところがいい。だってもうひとつの要素は闘牛だし、闘牛とフラメンコという王道でいっちゃうとコテコテになってしまったな、たぶん。
まさかピナ・バウシュがそんなに早く亡くなるとは思っていなかった。『トーク・トゥー・ハー』の冒頭は、とても心に残ったダンスシーンだったのに、私はその後ピナをとくべつに追いかけようとはしなかった。そしてそのまま、もう彼女の踊りを観ることは不可能になってしまった。人生、悔やんでも悔やみきれないことは多々あるが、ピナ・バウシュを観なかったこともそのひとつだ。観たいものはすぐにでも観ておかなくてはならない。ヴェンダースの『ピナ』を観て、つくづく思った。
2014年6月18日水曜日
L'intention de l'auteur est strictement respectée.
自慢じゃないけどヴィム・ヴェンダースにインタビューしたことがある(自慢だけど。笑)。とはいってももう16、7年前のことだ。偉大な映画人であり、当時の日本でもすでに著名な人であった。と、こんな書きかたをするのは、すぐれた映画をつくる人が著名であるとは限らないからだ。とりわけ日本では、出演俳優ばかりにスポットがあたり、つくる人、描く人はどうも裏方扱いされる傾向にある。ここ数年、ようやく監督の名前が先行する映画が出始めたように思うけれども。
それはともかく、ドイツ人映画監督で誰を思い浮かぶ?と訊かれて「ヴィム・ヴェンダース」と答える人がそれほどいるとは思えない。といってほかの監督の名前を挙げられるか? フリッツ・ラングやペーターセン。え、ドイツ人だったの?なんて声も聞こえてきそうだ。なんてこと、と嘆く映画ファンもいるだろうけれど、知らないということ、関心がないということはこういうことなのだ。
『パリ、テキサス』で日本の一般映画ファンの心もとらえたヴェンダースだが、観客はこの映画を観る時に撮ったのがドイツ人映画監督であるという知識は必要ない(ほんとはそのへん意識したいんだけどさ)。映画にドイツは全然出てこないからだ。極端な大ヒット作『ベルリン 天使の詩』によってその名声は世界中に轟いて、ヴェンダースは世界のあちこちを舞台に独特の視点で作品を撮るドイツ人映画監督だと、日本でもようやく認識されるようになったのではないか。というより、映画関係者にとって「神」に近い存在となって初めて、一般人にとっての「あ、その映画監督知ってるよ」くらいの著名な映画監督となる、といってもいいだろう。
97年、大阪で開催される映画祭の特別ゲストとしてヴェンダースが来る、と聞き私は小躍りした。私も単なる一般映画ファンなので、ヴェンダースについては何も知らなかった。『パリ……』と『ベルリン……』を観ただけだ。だけだが、元来アンデパンダンな映画を愛好する者にとってやはりこれらの作品は革命的な存在だった。
さらには、やはりつくる人の話はなにがなんでも聴きたい、という欲求があった。
大阪の映画祭の機会には何度か監督や撮影カメラマンの取材をしたが、つくり手の話を実際に聴くと映画というものへの愛が一気に深まるのを実感した。スクリーンの向こう側に敷かれた幾重ものつくり手たちの意図が映画を醸成しているかと思うと、その厚みや織りに思いが延びて感動が膨らむ。そんな経験から、ヴェンダースが大阪に来るなら絶対に話を聴きたい! と思ったのだったが。
「俺たちのために時間なんて取れないって」と編集長。映画祭主宰者側からの連絡は「無理」だった。主宰者は編集長と友達なのに。「なんとかならないのかなあ」と私。
『ベルリン……』のあと、日本における上映ではメガヒットを記録したものはないのに、彼が来日するとなるとそれはもうVIP中のVIP、破格の扱いだった。TVや大新聞、専門誌の取材が目白押しだった。はあ〜、観客として舞台挨拶を観る程度かあ。
しかし、朗報来たる! 「××TVの番組撮影の直前に数分間取ってくれることになったよ」。やった!
「俺、その日は行けないから、行ってくれよ」と編集長。「へ?」と私。「ヴェンダースのいい表情も、撮ってこいよ」「へ? 私ひとりで行くの? え、でも何語で話すの、私、英語できないよ」「ヴェンダースはフランス語ペラペラだよ」
いや、だからって、そんなビッグゲストにひとりでなんて……と大喜びしたのも束の間、大きな不安に苛まれる私。編集長は愉快そうに笑って「心配すんなよ。インタビュアーはもうひとりいるからさ」
もうひとりのインタビュアーはパリ在住の大学院生だった。日本人女性で、映画論だかなにかを研究している。そんな学問が成立するのね。研究論文執筆のために、映画のつくり手を直接訪ねて取材を重ねていた。ちょうど帰省するのと、ヴェンダースの来日とのタイミングが合い、こちらの取材に同行できることになったのだ。
事前に彼女がヴェンダースに訊ねたいことをリストアップしてきた。時間がないので話をどんどん突っ込んでいくわけにはいかない。しかし、もう二度とない機会だろうからこれだけは訊きたい、という彼女の意向は尊重したかった。回答の内容も想定し、こうきたらこう訊く、そう答えたらこっちへ転換、みたいな「予行演習」もした。
しかし、多くの場合そんなものは当日実際に相手と対峙すると吹っ飛んでしまうのだ。
当日、ヴェンダースの宿泊するホテルのロビーヘ行くと、映画祭実行委員長が私たちに「7分間」と言った。みじかっ。「君たちが取材している間、TVのクルーが機材のセッティングでガチャガチャやるけど、我慢してくれよな」
取材用の部屋ヘ行く。待つこと数分。ヴィム・ヴェンダースが実行委員長と一緒にやってきた。私たちは簡単に自己紹介をした。ヴェンダースは彼女に向かって「パリで映画の研究をしてるの? テーマは何?」なんてのんびり話しかける。彼女はその問いに手短に答えたあと「すみません、ムッシュー。時間がありません」「え、そうなの? 何分間?」「7分です」「おやおや」
私はすでに柔和なヴェンダースの横顔に向かってシャッターを切り続けていた。
心得たヴェンダースはこちらの問いに的確に明快に答えてくれ、その答えに対してインタビュアーがさらに質問を重ねてくるだろうことも想定して話を続けてくれた。取材慣れしているといえばそれまでだが、私たちのような学生と素人に対し、映画人としての自分の立ち位置、自分が映画を撮る意味、映画界になお残る悪弊などあますところなく語ってくれたのである。7分の間に。
《ヨーロッパの映画はアンデパンダン(独立している)です。作家の意図は完全に尊重されます。》
映画には巨額の製作費がかかる。映画のつくり手はスポンサーの意向を無視してはつくれないとしても、誰がそのことを責められるだろうか。しかしヴェンダースは、資金提供の源がどこであれ、それがいくらであれ、それに左右されるものはアンデパンダンではないと断言する。ヨーロッパでは当時すでに国境を越えた合作映画が盛んに製作されていたが、それじたいは喜ばしいことであり、いずれ国籍など問われることのない時代が来るだろう、とも言っていた。そのいっぽう、規模が大きくなり過ぎて、またスポンサーへの気遣いから作家が自分の表現を見失うとアンデパンダンに逆行する。そのとき「作家はアイデンティティを失います」
なぜ、ヴィム・ヴェンダースとの7分間を思い出したかというと、最近『Pina』のDVDを借りて観たからだ。
ピナ・バウシュの踊りはとてつもない。ピナはそれまでのダンスの常識を次々に破った人だ。ピナのもとで踊るダンサーたちの肉体の迫力にも圧倒される。
しかし、激しく奇妙な振り付け、予想を裏切る演出の続く舞台はたしかにエモーショナルだが、その映像の素材感、構成や撮影手法がたいへん「ヴェンダース的」で、あまりの懐かしさに胸がいっぱいになったのだった。静かな、ピナ・バウシュ追悼の映画だった。ピナもまた、意志を貫き通した表現者だった。ヴィム・ヴェンダースは、いち表現者としてピナ・バウシュの創作への姿勢に通底を感じていた。映画には、同志をなくしたヴェンダースの悲しみが満ちてスクリーンからつつつ、とこぼれるかのような、そんな湿度が感じられる。
それはともかく、ドイツ人映画監督で誰を思い浮かぶ?と訊かれて「ヴィム・ヴェンダース」と答える人がそれほどいるとは思えない。といってほかの監督の名前を挙げられるか? フリッツ・ラングやペーターセン。え、ドイツ人だったの?なんて声も聞こえてきそうだ。なんてこと、と嘆く映画ファンもいるだろうけれど、知らないということ、関心がないということはこういうことなのだ。
『パリ、テキサス』で日本の一般映画ファンの心もとらえたヴェンダースだが、観客はこの映画を観る時に撮ったのがドイツ人映画監督であるという知識は必要ない(ほんとはそのへん意識したいんだけどさ)。映画にドイツは全然出てこないからだ。極端な大ヒット作『ベルリン 天使の詩』によってその名声は世界中に轟いて、ヴェンダースは世界のあちこちを舞台に独特の視点で作品を撮るドイツ人映画監督だと、日本でもようやく認識されるようになったのではないか。というより、映画関係者にとって「神」に近い存在となって初めて、一般人にとっての「あ、その映画監督知ってるよ」くらいの著名な映画監督となる、といってもいいだろう。
97年、大阪で開催される映画祭の特別ゲストとしてヴェンダースが来る、と聞き私は小躍りした。私も単なる一般映画ファンなので、ヴェンダースについては何も知らなかった。『パリ……』と『ベルリン……』を観ただけだ。だけだが、元来アンデパンダンな映画を愛好する者にとってやはりこれらの作品は革命的な存在だった。
さらには、やはりつくる人の話はなにがなんでも聴きたい、という欲求があった。
大阪の映画祭の機会には何度か監督や撮影カメラマンの取材をしたが、つくり手の話を実際に聴くと映画というものへの愛が一気に深まるのを実感した。スクリーンの向こう側に敷かれた幾重ものつくり手たちの意図が映画を醸成しているかと思うと、その厚みや織りに思いが延びて感動が膨らむ。そんな経験から、ヴェンダースが大阪に来るなら絶対に話を聴きたい! と思ったのだったが。
「俺たちのために時間なんて取れないって」と編集長。映画祭主宰者側からの連絡は「無理」だった。主宰者は編集長と友達なのに。「なんとかならないのかなあ」と私。
『ベルリン……』のあと、日本における上映ではメガヒットを記録したものはないのに、彼が来日するとなるとそれはもうVIP中のVIP、破格の扱いだった。TVや大新聞、専門誌の取材が目白押しだった。はあ〜、観客として舞台挨拶を観る程度かあ。
しかし、朗報来たる! 「××TVの番組撮影の直前に数分間取ってくれることになったよ」。やった!
「俺、その日は行けないから、行ってくれよ」と編集長。「へ?」と私。「ヴェンダースのいい表情も、撮ってこいよ」「へ? 私ひとりで行くの? え、でも何語で話すの、私、英語できないよ」「ヴェンダースはフランス語ペラペラだよ」
いや、だからって、そんなビッグゲストにひとりでなんて……と大喜びしたのも束の間、大きな不安に苛まれる私。編集長は愉快そうに笑って「心配すんなよ。インタビュアーはもうひとりいるからさ」
もうひとりのインタビュアーはパリ在住の大学院生だった。日本人女性で、映画論だかなにかを研究している。そんな学問が成立するのね。研究論文執筆のために、映画のつくり手を直接訪ねて取材を重ねていた。ちょうど帰省するのと、ヴェンダースの来日とのタイミングが合い、こちらの取材に同行できることになったのだ。
事前に彼女がヴェンダースに訊ねたいことをリストアップしてきた。時間がないので話をどんどん突っ込んでいくわけにはいかない。しかし、もう二度とない機会だろうからこれだけは訊きたい、という彼女の意向は尊重したかった。回答の内容も想定し、こうきたらこう訊く、そう答えたらこっちへ転換、みたいな「予行演習」もした。
しかし、多くの場合そんなものは当日実際に相手と対峙すると吹っ飛んでしまうのだ。
当日、ヴェンダースの宿泊するホテルのロビーヘ行くと、映画祭実行委員長が私たちに「7分間」と言った。みじかっ。「君たちが取材している間、TVのクルーが機材のセッティングでガチャガチャやるけど、我慢してくれよな」
取材用の部屋ヘ行く。待つこと数分。ヴィム・ヴェンダースが実行委員長と一緒にやってきた。私たちは簡単に自己紹介をした。ヴェンダースは彼女に向かって「パリで映画の研究をしてるの? テーマは何?」なんてのんびり話しかける。彼女はその問いに手短に答えたあと「すみません、ムッシュー。時間がありません」「え、そうなの? 何分間?」「7分です」「おやおや」
私はすでに柔和なヴェンダースの横顔に向かってシャッターを切り続けていた。
心得たヴェンダースはこちらの問いに的確に明快に答えてくれ、その答えに対してインタビュアーがさらに質問を重ねてくるだろうことも想定して話を続けてくれた。取材慣れしているといえばそれまでだが、私たちのような学生と素人に対し、映画人としての自分の立ち位置、自分が映画を撮る意味、映画界になお残る悪弊などあますところなく語ってくれたのである。7分の間に。
《ヨーロッパの映画はアンデパンダン(独立している)です。作家の意図は完全に尊重されます。》
映画には巨額の製作費がかかる。映画のつくり手はスポンサーの意向を無視してはつくれないとしても、誰がそのことを責められるだろうか。しかしヴェンダースは、資金提供の源がどこであれ、それがいくらであれ、それに左右されるものはアンデパンダンではないと断言する。ヨーロッパでは当時すでに国境を越えた合作映画が盛んに製作されていたが、それじたいは喜ばしいことであり、いずれ国籍など問われることのない時代が来るだろう、とも言っていた。そのいっぽう、規模が大きくなり過ぎて、またスポンサーへの気遣いから作家が自分の表現を見失うとアンデパンダンに逆行する。そのとき「作家はアイデンティティを失います」
なぜ、ヴィム・ヴェンダースとの7分間を思い出したかというと、最近『Pina』のDVDを借りて観たからだ。
ピナ・バウシュの踊りはとてつもない。ピナはそれまでのダンスの常識を次々に破った人だ。ピナのもとで踊るダンサーたちの肉体の迫力にも圧倒される。
しかし、激しく奇妙な振り付け、予想を裏切る演出の続く舞台はたしかにエモーショナルだが、その映像の素材感、構成や撮影手法がたいへん「ヴェンダース的」で、あまりの懐かしさに胸がいっぱいになったのだった。静かな、ピナ・バウシュ追悼の映画だった。ピナもまた、意志を貫き通した表現者だった。ヴィム・ヴェンダースは、いち表現者としてピナ・バウシュの創作への姿勢に通底を感じていた。映画には、同志をなくしたヴェンダースの悲しみが満ちてスクリーンからつつつ、とこぼれるかのような、そんな湿度が感じられる。
2014年5月23日金曜日
Les petits rats 5
バレエを習わせ始めて1年くらい経った頃、私は早くも挫折しそうになっていた。仕事がうまくいっていなかったこともある(会社は事務所を畳むわ、ボスは後片づけを放棄して帰国するわでほんまにもうっ……という状態だった)けれども、それよりもこの環境でいつまで正気を保てるだろうかと(笑)かなり自信がなかった。「この環境」というのはいわずもがな、バレエ教室に通う子どもは裕福な家庭が多数派であるということであり、(えせ)セレブな奥様たちの天国状態、という環境のことである。
奥様たちとは価値観も異なれば話も合わないが、不幸中の幸いは多数派の中に「お下品な人たち」があまりいなかったことだ。経済的な豊かさと品格は比例しないし、現代日本ではほとんど関係ない。したがって「この環境」の中でも、ときたまとんでもない人に遭遇する。しかし、娘が所属していたクラスの場合に限るのかもしれないが、とんでもない人々は早々に去った。セレブも苦手だが、お下品はもっと苦手だ。なぜなら、ふと気を緩めるとそっちへ引っぱられてしまう自分を、否定できないから。人間というものは転落するほうが簡単なのである。
幸い多発しなかった「お下品な人たち」はさておく。
そんなわけで、裕福な多数派に混じって、出てくる話題に内心びっくり仰天しながらも(笑)会話を成立させる健気なワタクシ。適当に相槌打って、おほほと笑っていればやり過ごせる。とはいえ、なかなか、いつまでたっても慣れないのであった。1年に2回、発表会があるけれども、本番が迫ってくると土日には通し稽古が入れられ、親も子も休日返上となる。子どももたいへんだが、我が子がちゃんとしてるかどうか気が気でない保護者たちは長時間レッスンを見学したり、終了時刻に迎えに来ても練習が長引いて延々と待機したりする。こういう時間の潰しかたに、私は慣れずにいたのである。こうした時間を「多数派」たちとおしゃべりをして過ごす……。これでも繊細なワタクシは(笑)、かなり絶望的な思いにとらわれていた。かくして、2年目の秋の発表会は出演を辞退することにしたのだった。
娘が小学校に上がってすぐ、私は前述したように仕事を失くした。正直、いろいろなことで疲弊しきっていた。現況から脱出したかった。アタマを干しココロの洗濯。もちろん、そんなふうには言わず、夏休みはフランスヘ行こうよ、長く休みをとれるのはめったにない機会だから、と言った。娘は旅行が好きだから、わーいと喜んだ。
6月ごろから、9月の発表会に向けた練習が始まり、7月になると本格化するが、出演しない子どもたちは臨時クラスが設けられ、年齢を問わずレッスンはその時間帯に一本化される。ほうり込まれる感じだ。出演しない子でレッスンに来る子というのはとても数が少ないので、意外ときめ細かくレッスンされてよいのだが、疎外感は否めない。
9月の秋の発表会は、私たち母娘は客席で観覧した。たいへん楽しく舞台を鑑賞できた。しかし娘ははっきりと言った。「来年は、ぜったい出る」
発表会を休むことが、自分にこれほど大きな喪失感をもたらすとは! ……と、思ったかどうかはわからないが、一度発表会を休んだことで却って舞台への執着心を喚起してしまった。発表会に出なかったのは、あとにも先にもこの小学1年生の秋だけである。そっか、来年は出るってか……出たいのか、やっぱし。私は、あわよくば「発表会、1年に1回出られたらええわ」と言わせようと思っていたが裏目に出てしまいましたの巻、となったのだった。まじめにしっかりお稽古せなあかんよ、お稽古中お友達とふざけたりしたらあかんよ、と、けっしてふざけることなく真面目に練習している娘に向かって、大きなお世話の念を押した。
秋が深まると、翌春3月に行われる春の発表会の配役が決まる。小学校低学年までは群舞しかあたらないが、それでもどのパートを踊らせてもらえるのか、子どもたちはワクワクして配役の発表を待つ。クラスごとに受け持つパートが決まると、振り付けが始まる。
我が娘は水を得た魚のように、以前にもまして喜び勇んでレッスンに向かうようになった。低学年クラスは1年生から3年生までが一緒に練習する。最初のうちはとても大きく感じられた3年生のお姉さん生徒たちだったが、小さいなりに、先輩の得手不得手が見えてくるようになる。「Bちゃんはぴたっと止まれへんからいつも注意されたはる」「Cちゃんは足上げた時膝が伸びてきれい」
一度だけ、恐れ多いことに、先輩に「意見」したことがあったそうだ(笑)。
腕、もうちょっと上と違う?みたいな、ちょっとしたことだったらしいけど、その3年生は「アンタに言われたない」と言い返したそうだ。おおこわ(笑)
娘は、言い返されたことを気に病む様子はまるでなく、先輩のその癖を「直したらすごくきれいやのに。そしたらみんなとも揃うのに」と案じてみせる。君、余裕だな(笑)。しかし人のことより、自分のことは大丈夫か。そんな親の心配をよそに、どこ吹く風でレッスンを満喫する我が娘。ほんとうに、楽しそうである。
そろそろ「オンナ」が顔を出す小学生。ちょっぴり火花を散らしながらの練習を彼女たちなりに懸命にこなし、総勢約40人の低学年2クラスによる妖精たちの踊りは、なかなかに迫力があった。いや、親バカですけどね。どの子も上手に見える振り付け、配列には無理がなく必要十分で、よく考えてあるなあと前年同様感心した。
最初に書いたように、発表会があると保護者どうしのコミュニケーションが活発になるのだが(笑)、私はもう腹をくくった。
こんなんたいしたことちゃうわ、と開き直ることができたのは、バレエ教室に向かう娘のまなざしになんともいえない真剣さが見えたからだ。もちろんまだまだ頼りなげだが、その瞳には充実を実感する者だけが見せる輝きがあった。その真剣さがほんとうにホンモノとなって結実するかどうかなんてわからなかったし、問題はそのことではなかった。そうではなくて、私の都合で娘の好奇心や向上心を左右したり遮断したりすることは論外なのだ。私は改めて肝に命じた。えせセレブ奥様なんかこわくないわよ。有閑マダムトークがなんぼのもんじゃい。というわけでイバラの道は続いたのであった(笑)。
2014年5月11日日曜日
Les chaussures? Non, les pierres!
『靴に恋して』というスペインの映画を観た。図書館でDVDを借りたのだ。
ここ数か月、まめに近所のレンタル屋に通っていたのだが、そこで扱っている映画(ドラマ)の種類は90%が次の3種類。邦画、ハリウッド、韓流。
だからフランス映画もスペイン映画も借り尽くした。上質の英国もの、イラン映画、フィンランドのアキ・カウリスマキ監督作品、そういう「これ」っつうDVDは全部、借りて観てしまった。「お客様、こちら以前にもお借りですけど間違いなかったですか」なんて、パソコン画面の貸し出し履歴を見た店員がご親切にも確認してくれる。ええ、ええ、知ってるよ2回目よ、好きなのよお気に入りなのよその映画、それにアンタんとこ、ほかに借りたいもんないからさ、いいのよそれ借りるのよ。もっとヨーロッパのもん置いてよね。
というわけで、そうだ、図書館という手があった、しかも無料ではないか! と私はいさんで本だけでなくDVDをも図書館で借りる悦びを覚えてしまって、ちょっとヤバいのである。いや、だって、仕事がおろそかになっちゃいますもの。本とDVD、そんなに積み上げてどうするんだ私!
それはともかく、『靴に恋して』の主人公たちは「扁平足のアデラ」とか「外反母趾のマリカルメン」とか書いてあったので、そして原題の『Piedras』って、仏語で足を意味する「pied」と似ているから私はてっきり「靴」と「足」の話だと思って借りたのだ。そしたら全然違いました(笑)。
ここでこの映画の話をするのは趣旨と異なり、またこの映画の話が話だけに収拾つかなくなるので、ご興味のある向きは「靴に恋して」で検索をかけてもらい、たんまり出てくる映画評や感想の数々を参照されたい。
それにしてもほんとに、全然違ったんだぞ。「靴に恋して」なんつう邦題は詐欺だぞ。主人公の女たち、誰も靴なんかに恋していないぞ!!!
原題の『Piedras』の意味は「石」だそうだ。石だってえ?!
*
前回足の話を書いたけれども、スポーツや武道、舞踊など体を動かす者にとって足の痛みはつきものだ。だからフットケアはすごく重要。有森裕子さんがあるマラソン大会の解説をしている時に、「痛みがあると、ふつう、走れません」と断言していた。本番に痛みを持ち越すことはプレイヤーとして愚の骨頂、そして致命傷。だから、治して万全を期すことが理想だ。だけど、治らないことがよくある。こういうとき、治らないから本番を諦めるか、無理矢理、痛みを取り除くか。
私は「治す」のを優先させたい。それが成長中の子どもだったら、なおさらではないか。痛みに耐えてプレイする、そのこと自体は美しいかもしれないが、その後何年も痛みがあとをひく危険性があるのだ。いや、必ずそうなる。私がそれを経験済みだから、今なお若い時の古傷の痛みに悩まされる中高年となっちゃったから、そんな目に遭わせたくないとの思いから、いまの怪我はいま治す、いまの痛みはいま癒す、ことを徹底したいと思った。思ったんだけど……。
校庭でバスケットボールをして遊んでいて、友達と足が絡まって捻挫して転んだ。娘は5年生だった。学校近くの整形外科でレントゲンを撮り、湿布をされ、足首サポーターをはめられた。サポーターは簡易ギプスとでもいおうか、がっちりと足を包んでサポートするものだが、付け外しがとても簡単だ。自分が捻挫や骨折でたいそうな思いをした記憶が甦り、私は隔世の感を覚えた。便利になったねえ。いや、しかし、それどころではなかった。娘は約1週間後にバレエの発表会を控えていたのだった。初めて「名前のある役」をもらって、一緒に踊る仲間たちとも息ピッタリ、仕上がりも上々でほんとうに楽しみにしていたのだった。捻挫そのものは重症でもなかった。しかし、事情を打ち明けた時、医師は渋い顔をした。「ぎりぎり、踊れんこともないやろけど……」。たぶん、ハイティーン以上の大人なら対処できる程度の怪我だったと思われるが、娘はなんといっても5年生だった。「ほんまはやめとけ、て言いたいけどな」とカルテを見ながらつぶやいた医師は、娘の顔を見て「出たいやろ」と微笑んだ。娘は涙でぐしょぐしょになった顔でうなずいた。
痛みが後々残るようなことにはしたくないんですけど、と私が言うと、まず4日間は絶対安静です、歩いてもいけません、とびしっと言ってから医師は、その時点での足の状態によっては徐々に動かせる、どう動かすかは足を見て指示するからと娘と私の顔を交互に見ながらつけ加えた。「回復が思わしくなかったら本人は辛いでしょうが諦めさせましょう。そやからな、おとなしくしてんにゃで」
しかし、事はそうシンプルではないのであった。4日間の安静ののち、仮にダメ出しされたとして、では舞台はどうする? どのみち代役を立てる時間はないが、まったく舞台に出られないのと、満足にステップ踏めなくてもとにかくその場に居て場面を維持することができるのと、どちらがいいのか。
ポワントで立てず、ステップも踏めなくてただ人数合わせのためだけにそこにいても、事情のわからない観客にはヘタクソがちょろちょろしてるようにしか見えないはずだ。だったら一人欠けた状態でしのぐほうがマシじゃないのか。
4日間の安静ののち、順調に回復しているとしても、さらにその4日後の本番の舞台でベストに持っていくなんてこと、できるのか。そんな、百戦錬磨のアスリートや数多の苦難を乗り越えてきたプロダンサーじゃあるまいし。
まして、中途半端な回復期に、若干痛みがマシだからとはりきって踊って、捻挫が悪化するとかあとになって痛みや腫れがぶり返したとか、そんな事態が待っていないと誰が保証するのか。医師だって、そんな保証はできないではないか。
ここは、娘は嘆き悲しみ、バレエ教室は大騒ぎになるだろうけれども、涙をのんで出演を諦めるのが将来のためにもいい決断のはず。そう思って「悔しいし、悲しいけど、今回は出るの辞めようよ」と言ってみたが、「あり得ない」と一蹴された、娘に。
この時の自分の対応は、私にとって一生悔やんでも悔やみきれない大きな禍根となった。ひっぱたいても、舞台を諦めさせ、治療に専念させるべきだったのだ。
怪我をした日を含めて丸3日、娘は痛みとそれにともなう恐怖(発表会に出られないかもしれない、という恐怖)に泣き続けた。捻挫をすると、ずきずきと患部が疼く。内服薬でいくぶん緩和されるが、効き目が途切れるとまた痛み出す。けっきょくは日にち薬でしかないから、あるていどの間はどうしても痛み続ける。変な風邪や腹痛で熱を出したり嘔吐したりといった経験はあったが、このたびのような怪我には初めて遭遇したといっていいから、足首に悪魔が取り憑いたとでもいわんばかりに恐れおののいて泣いていたのだった。いや、しかし、あんまり泣かれると、もしや捻挫の痛み以外に何かあるのかと心配になるではないか。どう痛いの、どこが痛いの、痛みが強まってるの、と尋ねるも、ふぇんふぇんいたいいたいと赤子のようにぐずるばかりなのだった。
どう痛いのかちゃんと言葉で説明できなければ、誰もその怪我は治せない。そしてどう痛いのかを知るのは自分だけなのだ。
娘はなにがなんでも発表会には出ると言った。辞退なんてあり得ない、痛くても出る、お医者さんはギリギリ間に合うって言わはった、どうしてもナポリの踊り、踊りたい!……。だったら、足のどの部分がどんなふうに痛むのか、今度お医者さんに行ったらちゃんと言えるように、よく足の声を聴かなあかん! でないとなんぼ間に合うて言うたはってもやっぱり無理やって言わはるで!
しかし、こう言いきかせながらも私は、ああこれでおそらく無理矢理舞台に立つことになってしまうであろうと、翌日以降の展開が見えてしまった。そして、たぶんまた忘れた頃に、今度は怪我をしなくても足に痛みを覚える日がくるのだ。
これまでずっと、我が子の足が健やかに育つように「全力で取り組んだ」つもりだったのに、けっきょくは「奏効しなかった」といっていい。
4日後、嘘のように痛みがひき、娘は足をかばいながらも登校を再開し、バレエ教室のリハーサルも見学に行った。たしかに痛みはひいているようだった。娘の足の使いかたでよくわかった。若いから回復が早いと、再診のとき、医師は言った。「うまいこといくかもしれんな」と娘の顔を見て、ふたりしてにっこり。私は複雑だった。いいのか、これで。いや、よくはない。感情はぐるぐると空回りを続けたが、空回りしか、しなかった。
娘は無事に舞台を終え、怪我に負けなかったこととか直前のリハ不足をものともしなかったとかなんとかかんとかとたくさんの褒め言葉をいただいて、ご満悦であった。私も、正直、一度はほっと胸を撫でおろし、これでよかったと思うようにしよう、と気持ちを片づけたのだった。
だが、6年生になって陸上の練習が本格化する。それとともに、捻挫の患部だけでなくさまざまな場所に痛みを生ずるようになってきていた。痛みは、ベストパフォーマンスの妨げになる。それはどんなジャンルでも同じ。痛みに襲われ、レースの後半で失速した試合。痛みが拭えず、できるはずのステップが踏めなかった舞台。娘はつねに痛みと戦わなければならなくなった。時には勝ち、時には負ける。いずれにしてもつねに戦っているのだ。その始まりはあの捻挫だった。この怪我を完治させなかったのは私の優柔不断だ。
6か月検診で内翻足(内反足)と診断されて以来、片時も気を許さず娘の足を見つめ続けて、歩くようになってからは靴にこだわり、最良の靴を与え、草履を履かせてみたり、足にいいとされることはなんでもトライさせた。幸い内翻足は自然に矯正されたようだった。万事、うまくいっていたはずだった。
それが……豈図らんや。
*
スペイン映画『靴に恋して』の原題である「石」に込められた意味は、人生にはまずその人の根幹となる大きな石がどすんと置かれることが必要だ、ということだそうだ。大きな器にまず大きな石を入れる。器を隙間なく満たすには、大きな石を入れたあとは細かい砂や水を入れるしかないが、人生もそういうものだということらしい。『靴に恋して』の主人公たちは、その大きな石を得ていないから不運に振り回されている。けれどもやがて……という話なのだ。
あの怪我を完治させなかったことで、「石」を置かないまま中途半端に人生を歩かせていないか。いっぽう、痛みと戦い続けてきたせいで、娘はちょっとやそっとのことでは挫けない根性を身につけたともいえるから、そのこと自体を「石」と考えるか。
全然「靴」に「恋して」なんかいない映画の真意を理解して、ますます「靴」と「足」についてのあれこれを思い出して自己嫌悪に陥るのであった。
娘よ、私のことはほっといて大きく羽ばたいてくれ。
ここ数か月、まめに近所のレンタル屋に通っていたのだが、そこで扱っている映画(ドラマ)の種類は90%が次の3種類。邦画、ハリウッド、韓流。
だからフランス映画もスペイン映画も借り尽くした。上質の英国もの、イラン映画、フィンランドのアキ・カウリスマキ監督作品、そういう「これ」っつうDVDは全部、借りて観てしまった。「お客様、こちら以前にもお借りですけど間違いなかったですか」なんて、パソコン画面の貸し出し履歴を見た店員がご親切にも確認してくれる。ええ、ええ、知ってるよ2回目よ、好きなのよお気に入りなのよその映画、それにアンタんとこ、ほかに借りたいもんないからさ、いいのよそれ借りるのよ。もっとヨーロッパのもん置いてよね。
というわけで、そうだ、図書館という手があった、しかも無料ではないか! と私はいさんで本だけでなくDVDをも図書館で借りる悦びを覚えてしまって、ちょっとヤバいのである。いや、だって、仕事がおろそかになっちゃいますもの。本とDVD、そんなに積み上げてどうするんだ私!
それはともかく、『靴に恋して』の主人公たちは「扁平足のアデラ」とか「外反母趾のマリカルメン」とか書いてあったので、そして原題の『Piedras』って、仏語で足を意味する「pied」と似ているから私はてっきり「靴」と「足」の話だと思って借りたのだ。そしたら全然違いました(笑)。
ここでこの映画の話をするのは趣旨と異なり、またこの映画の話が話だけに収拾つかなくなるので、ご興味のある向きは「靴に恋して」で検索をかけてもらい、たんまり出てくる映画評や感想の数々を参照されたい。
それにしてもほんとに、全然違ったんだぞ。「靴に恋して」なんつう邦題は詐欺だぞ。主人公の女たち、誰も靴なんかに恋していないぞ!!!
原題の『Piedras』の意味は「石」だそうだ。石だってえ?!
*
前回足の話を書いたけれども、スポーツや武道、舞踊など体を動かす者にとって足の痛みはつきものだ。だからフットケアはすごく重要。有森裕子さんがあるマラソン大会の解説をしている時に、「痛みがあると、ふつう、走れません」と断言していた。本番に痛みを持ち越すことはプレイヤーとして愚の骨頂、そして致命傷。だから、治して万全を期すことが理想だ。だけど、治らないことがよくある。こういうとき、治らないから本番を諦めるか、無理矢理、痛みを取り除くか。
私は「治す」のを優先させたい。それが成長中の子どもだったら、なおさらではないか。痛みに耐えてプレイする、そのこと自体は美しいかもしれないが、その後何年も痛みがあとをひく危険性があるのだ。いや、必ずそうなる。私がそれを経験済みだから、今なお若い時の古傷の痛みに悩まされる中高年となっちゃったから、そんな目に遭わせたくないとの思いから、いまの怪我はいま治す、いまの痛みはいま癒す、ことを徹底したいと思った。思ったんだけど……。
校庭でバスケットボールをして遊んでいて、友達と足が絡まって捻挫して転んだ。娘は5年生だった。学校近くの整形外科でレントゲンを撮り、湿布をされ、足首サポーターをはめられた。サポーターは簡易ギプスとでもいおうか、がっちりと足を包んでサポートするものだが、付け外しがとても簡単だ。自分が捻挫や骨折でたいそうな思いをした記憶が甦り、私は隔世の感を覚えた。便利になったねえ。いや、しかし、それどころではなかった。娘は約1週間後にバレエの発表会を控えていたのだった。初めて「名前のある役」をもらって、一緒に踊る仲間たちとも息ピッタリ、仕上がりも上々でほんとうに楽しみにしていたのだった。捻挫そのものは重症でもなかった。しかし、事情を打ち明けた時、医師は渋い顔をした。「ぎりぎり、踊れんこともないやろけど……」。たぶん、ハイティーン以上の大人なら対処できる程度の怪我だったと思われるが、娘はなんといっても5年生だった。「ほんまはやめとけ、て言いたいけどな」とカルテを見ながらつぶやいた医師は、娘の顔を見て「出たいやろ」と微笑んだ。娘は涙でぐしょぐしょになった顔でうなずいた。
痛みが後々残るようなことにはしたくないんですけど、と私が言うと、まず4日間は絶対安静です、歩いてもいけません、とびしっと言ってから医師は、その時点での足の状態によっては徐々に動かせる、どう動かすかは足を見て指示するからと娘と私の顔を交互に見ながらつけ加えた。「回復が思わしくなかったら本人は辛いでしょうが諦めさせましょう。そやからな、おとなしくしてんにゃで」
しかし、事はそうシンプルではないのであった。4日間の安静ののち、仮にダメ出しされたとして、では舞台はどうする? どのみち代役を立てる時間はないが、まったく舞台に出られないのと、満足にステップ踏めなくてもとにかくその場に居て場面を維持することができるのと、どちらがいいのか。
ポワントで立てず、ステップも踏めなくてただ人数合わせのためだけにそこにいても、事情のわからない観客にはヘタクソがちょろちょろしてるようにしか見えないはずだ。だったら一人欠けた状態でしのぐほうがマシじゃないのか。
4日間の安静ののち、順調に回復しているとしても、さらにその4日後の本番の舞台でベストに持っていくなんてこと、できるのか。そんな、百戦錬磨のアスリートや数多の苦難を乗り越えてきたプロダンサーじゃあるまいし。
まして、中途半端な回復期に、若干痛みがマシだからとはりきって踊って、捻挫が悪化するとかあとになって痛みや腫れがぶり返したとか、そんな事態が待っていないと誰が保証するのか。医師だって、そんな保証はできないではないか。
ここは、娘は嘆き悲しみ、バレエ教室は大騒ぎになるだろうけれども、涙をのんで出演を諦めるのが将来のためにもいい決断のはず。そう思って「悔しいし、悲しいけど、今回は出るの辞めようよ」と言ってみたが、「あり得ない」と一蹴された、娘に。
この時の自分の対応は、私にとって一生悔やんでも悔やみきれない大きな禍根となった。ひっぱたいても、舞台を諦めさせ、治療に専念させるべきだったのだ。
怪我をした日を含めて丸3日、娘は痛みとそれにともなう恐怖(発表会に出られないかもしれない、という恐怖)に泣き続けた。捻挫をすると、ずきずきと患部が疼く。内服薬でいくぶん緩和されるが、効き目が途切れるとまた痛み出す。けっきょくは日にち薬でしかないから、あるていどの間はどうしても痛み続ける。変な風邪や腹痛で熱を出したり嘔吐したりといった経験はあったが、このたびのような怪我には初めて遭遇したといっていいから、足首に悪魔が取り憑いたとでもいわんばかりに恐れおののいて泣いていたのだった。いや、しかし、あんまり泣かれると、もしや捻挫の痛み以外に何かあるのかと心配になるではないか。どう痛いの、どこが痛いの、痛みが強まってるの、と尋ねるも、ふぇんふぇんいたいいたいと赤子のようにぐずるばかりなのだった。
どう痛いのかちゃんと言葉で説明できなければ、誰もその怪我は治せない。そしてどう痛いのかを知るのは自分だけなのだ。
娘はなにがなんでも発表会には出ると言った。辞退なんてあり得ない、痛くても出る、お医者さんはギリギリ間に合うって言わはった、どうしてもナポリの踊り、踊りたい!……。だったら、足のどの部分がどんなふうに痛むのか、今度お医者さんに行ったらちゃんと言えるように、よく足の声を聴かなあかん! でないとなんぼ間に合うて言うたはってもやっぱり無理やって言わはるで!
しかし、こう言いきかせながらも私は、ああこれでおそらく無理矢理舞台に立つことになってしまうであろうと、翌日以降の展開が見えてしまった。そして、たぶんまた忘れた頃に、今度は怪我をしなくても足に痛みを覚える日がくるのだ。
これまでずっと、我が子の足が健やかに育つように「全力で取り組んだ」つもりだったのに、けっきょくは「奏効しなかった」といっていい。
4日後、嘘のように痛みがひき、娘は足をかばいながらも登校を再開し、バレエ教室のリハーサルも見学に行った。たしかに痛みはひいているようだった。娘の足の使いかたでよくわかった。若いから回復が早いと、再診のとき、医師は言った。「うまいこといくかもしれんな」と娘の顔を見て、ふたりしてにっこり。私は複雑だった。いいのか、これで。いや、よくはない。感情はぐるぐると空回りを続けたが、空回りしか、しなかった。
娘は無事に舞台を終え、怪我に負けなかったこととか直前のリハ不足をものともしなかったとかなんとかかんとかとたくさんの褒め言葉をいただいて、ご満悦であった。私も、正直、一度はほっと胸を撫でおろし、これでよかったと思うようにしよう、と気持ちを片づけたのだった。
だが、6年生になって陸上の練習が本格化する。それとともに、捻挫の患部だけでなくさまざまな場所に痛みを生ずるようになってきていた。痛みは、ベストパフォーマンスの妨げになる。それはどんなジャンルでも同じ。痛みに襲われ、レースの後半で失速した試合。痛みが拭えず、できるはずのステップが踏めなかった舞台。娘はつねに痛みと戦わなければならなくなった。時には勝ち、時には負ける。いずれにしてもつねに戦っているのだ。その始まりはあの捻挫だった。この怪我を完治させなかったのは私の優柔不断だ。
6か月検診で内翻足(内反足)と診断されて以来、片時も気を許さず娘の足を見つめ続けて、歩くようになってからは靴にこだわり、最良の靴を与え、草履を履かせてみたり、足にいいとされることはなんでもトライさせた。幸い内翻足は自然に矯正されたようだった。万事、うまくいっていたはずだった。
それが……豈図らんや。
*
スペイン映画『靴に恋して』の原題である「石」に込められた意味は、人生にはまずその人の根幹となる大きな石がどすんと置かれることが必要だ、ということだそうだ。大きな器にまず大きな石を入れる。器を隙間なく満たすには、大きな石を入れたあとは細かい砂や水を入れるしかないが、人生もそういうものだということらしい。『靴に恋して』の主人公たちは、その大きな石を得ていないから不運に振り回されている。けれどもやがて……という話なのだ。
あの怪我を完治させなかったことで、「石」を置かないまま中途半端に人生を歩かせていないか。いっぽう、痛みと戦い続けてきたせいで、娘はちょっとやそっとのことでは挫けない根性を身につけたともいえるから、そのこと自体を「石」と考えるか。
全然「靴」に「恋して」なんかいない映画の真意を理解して、ますます「靴」と「足」についてのあれこれを思い出して自己嫌悪に陥るのであった。
娘よ、私のことはほっといて大きく羽ばたいてくれ。
2014年5月4日日曜日
Les pieds...!
近所に、古い小学校校舎を改修したギャラリー&ホールがある。少子化のあおりを受けて多くの小学校が廃校になったが、このホールのように校舎のレトロな雰囲気を生かして改修・再利用するケースがほとんどだ。壊して真新しい建物にする場合も、ファサードは残すとか、校庭部分は残して地域のレクレーションの場にするとか、活用に苦心する様子は見受けられるもののなんとかさまざまに利用されている。
このホールはふだん芸術センターと呼ばれていて、著名なアーチストの公演や個展のほか、子どもたちの絵画や書道の作品展、学生の発表の場、伝統芸能の体験教室など多彩に活用されていて、廃校再利用としては成功例に入るだろう。私も娘もよく足を運び、音楽会、人形劇、コンテンポラリーダンス、狂言、落語などを鑑賞したり、絵画など美術作品の鑑賞にも行ったし、娘がうんと小さい頃は、図画工作の実習はもちろん、能楽の小鼓の体験学習も受けた。大人向けに、和室で茶道教室や校庭でテニススクールも開催されていると聞く。
2月、ここを会場に、フィンランドの振付家&彼のカンパニーが京都の実験ダンス集団と協力してダンスの上演を行った。フィンランドと書いたがアイスランドだったかも、ノルウェーだったかも、いや違うかもしれん……北欧には違いないけど、忘れた。
ダンスというよりはボディパフォーマンス。実は私はそういうものが大好きである。若い頃は、アングラ劇団やマイナーなミュージシャン、不思議な実験映像や身体表現を追いかけて、怪しげな掘建て小屋や廃墟ビルや空き地に建てたテントなどへ足を運んだ。何年もそういったものから遠ざかっていたけれど、できるだけ時間を確保して少しずつ好きなものへのアクセスを増やしていきたいと、切に思う今日この頃であったのである。芸術センターの公演はたいていリーズナブルなので、つねづね情報に目を光らせていたところ、件のコラボ企画が目に留まった。その北欧の振付家もカンパニーも知らなかったが京都のほうはコンテンポラリーでは名の知れた集団だったので、迷わず行くことにした。そう決めると、久しぶりに心躍った。
昔の校舎の講堂を生かしたスペースをそのまま平らに使って、白いテープでパフォーマンスエリアを区切り、その外側に、エリアを囲むように観客がぺたりと座る。ダンサーたちは白いテープのそこかしこからおもむろに歩き出したり走り出したり這い出したりして動き始める。いきなり、そのへんにいる人たちが立ち上がって、すっと動き始める。
ポーズ(休憩)を挟まずに、次々と身体表現が繰り広げられる。音楽は北欧の彼らと行動をともにしているオランダ人のミュージシャンが 隅っこに陣取り、ギターを弾いたりパソコンで電子音を出したりしている。ダンサーの動きを見ながら操作している、あるいは、好き勝手に音を出している。音に合わせて踊って(動いて)いるというよりも、あっちで鳴っている音と、こっちの人々の動きがたまたま出会ってシンクロしているといえばいいのか。見よう、聞きようによっては、緻密に計算され尽くしたパフォーマンスであるとも思える。
2時間余、たっぷり「カラダが創り出す空間」を堪能した。表現者たちはラフなシャツとパンツ、あるいはタンクトップやTシャツといういでたちで、色もバラバラ、何ひとつ統一された記号的要素はないのに、不思議な一体感を醸し出したボディパフォーマンスだった。
面白かった。芸術として、舞踊作品として非常に面白かったと言っていいのだが、専門的な批評眼をもたないので、私自身が受けた感銘をあまりうまく書き表わせないのが残念だ。
なにより、衝撃的なほどに感動したのが、彼らの「足」だ。
過去に何度もコンテンポラリーは観ているが、こんなに間近に裸足で踊る人の足を見たことはなかったかもしれない。昔、舞台にかぶりつきで鑑賞した覚えもあるが、たぶんその頃は「足」に関心がなかったのだろう。今回、私はダンサーたちの「足」ばかり見ていた。彼らの足は実に大きく、カッとゆびが開かれ、土踏まずはえぐられたように高く深く、中の関節がくるくる回るのが透けて見えるかのようなくるぶしをもっていた。ゆびも甲も土踏まずも「もの」を言う。足は高く振り上げられたり床を滑ったり、パートナーの脚や背の上を這ったりする。ダンサー自身の頭、体とは別の生き物が脚の先に付いているようにすら見える、「足」。
なんと力強い足だろうか。
男性も女性も、足による表現は、例外なく素晴しかった。
クラシックにおいても、ポワントを履いた足はその足首、甲、ふくらはぎでさまざまな感情表現をする。高度な技術と丹念に鍛え上げられた筋肉が備わってなければ、観客を魅了する表現はできない。
方法は違えど、裸足で踊るコンテンポラリーも同様である。
「足」は、最も重要なボディパーツかもしれない、ダンサーにとって。
思えば、娘は陸上競技者でもあったので、つねに足の痛みに泣かされてきた。
クラシックバレエと陸上競技とでは、筋肉の使いかたが異なるので鍛えかたも異なる。それは異なる方法で両方使えるようにそれぞれ鍛えればいいんでしょうといわれそうだが、人間の体は、ふつうの人間の場合だが、そんなに器用には働かないのだ。バレエと陸上、それぞれにとって不要な鍛えかたをしてしまうことが徒になり、鍛えてしまった結果本来使うべきでない筋肉をつい使ってそれぞれのパフォーマンス(踊るor走る)を行うと、無理が生じて痛みを発生するのである。
大腿部やふくらはぎの鍛えられかたの割に、娘の足は、土踏まずの筋肉が弱かった。そのため甲に痛みが生じた。リスフランとかなんとかいう傷病名だったり、筋膜がどうこういわれたり、外反母趾の症状もあり、骨折したり断裂したりはなかったけれども足の痛みのために踊れず走れずという日々が続く、といったことも経験した。舞台前のリハーサルで痛みが取れないと、ようやくこなせてきた難しい振り付けをけっきょくは平易なものに変更されたりする。陸上競技の試合や記録会前あるいは当日に痛むと当然ながらそれが記録に現れる。舞台も試合も、どちらも当日の本番一発勝負だから、痛みのせいで不本意に終わると大きな悔いを残す。
「まず休む。十分に休息を取ったら、土踏まずと足指の筋肉を鍛えるトレーニングを集中して行う。走るのも踊るのもそれからあと」
かかりつけの整形外科医が娘を診るたびに言った言葉だ。しかし、娘はバレエを休んだ時は走っていたし、部活を休む時は舞台のリハでびっしりだった。
娘の足はつねに悲鳴を上げていた。もっと足の声を聴け。もちろん、足だけではない、背中も腰も、つねに体はモノを言っている。その声を聴けるのは体の持ち主だけだよ。よく聴いて体の奥の変化を自分で感じ取らないと、ほかの人にはけっしてわからないのだから。10歳頃から娘は母親にそんなことを言われ続けてきた。
小学校で初めて足を捻挫したときに、わーわー、めそめそ、娘は泣いてばかりいた。途方に暮れて私は「泣いてても何がどうなんか、わからんっ」と一喝し、君の痛みは君にしか聴こえない体の悲鳴なのだということを、こんこんと言って聞かせた。
娘は、私の前では足の痛みを理由に泣かなくなった。しかし、浴室で、布団の中で声を押し殺して泣いていたことがよくあった。痛みが引かないまま本番を迎えざるをえなくて、やはり結果が芳しくなかった時は、その晩、こっそりと泣いていた。
例のダンス公演の感想を、娘にメールした。
「足がすごかったぞ。やっぱし、ダンスは足やで!」
返信が来た。
「足ね、足。らじゃー」
わかっているんだかなんなんだか。
*
足のケアは、何をするにせよ、重要だ。
老親の晩年を見ても、足が弱って歩けなくなることが活力を低下させてしまうのは明らかだ。
実は私自身、高校生の頃からスポーツが原因で足は故障ばかりしていた。きちんと治療せずに放置した結果、体は痛みのデパートと化している。親たちのような晩年を迎えないためにはどうしたらいいか真剣に考えなくてはならないが、自分のことを考えなくてはいけない時期というのは、たいてい子どものことがより重要であったりするのだ。
娘に書くメールの末尾には必ず足のケア忘れるなと書き添える。いたわって、よくマッサージして、ほぐして……etc.
「足」は脚の先に生息している「生き物」だからな。
このホールはふだん芸術センターと呼ばれていて、著名なアーチストの公演や個展のほか、子どもたちの絵画や書道の作品展、学生の発表の場、伝統芸能の体験教室など多彩に活用されていて、廃校再利用としては成功例に入るだろう。私も娘もよく足を運び、音楽会、人形劇、コンテンポラリーダンス、狂言、落語などを鑑賞したり、絵画など美術作品の鑑賞にも行ったし、娘がうんと小さい頃は、図画工作の実習はもちろん、能楽の小鼓の体験学習も受けた。大人向けに、和室で茶道教室や校庭でテニススクールも開催されていると聞く。
2月、ここを会場に、フィンランドの振付家&彼のカンパニーが京都の実験ダンス集団と協力してダンスの上演を行った。フィンランドと書いたがアイスランドだったかも、ノルウェーだったかも、いや違うかもしれん……北欧には違いないけど、忘れた。
ダンスというよりはボディパフォーマンス。実は私はそういうものが大好きである。若い頃は、アングラ劇団やマイナーなミュージシャン、不思議な実験映像や身体表現を追いかけて、怪しげな掘建て小屋や廃墟ビルや空き地に建てたテントなどへ足を運んだ。何年もそういったものから遠ざかっていたけれど、できるだけ時間を確保して少しずつ好きなものへのアクセスを増やしていきたいと、切に思う今日この頃であったのである。芸術センターの公演はたいていリーズナブルなので、つねづね情報に目を光らせていたところ、件のコラボ企画が目に留まった。その北欧の振付家もカンパニーも知らなかったが京都のほうはコンテンポラリーでは名の知れた集団だったので、迷わず行くことにした。そう決めると、久しぶりに心躍った。
昔の校舎の講堂を生かしたスペースをそのまま平らに使って、白いテープでパフォーマンスエリアを区切り、その外側に、エリアを囲むように観客がぺたりと座る。ダンサーたちは白いテープのそこかしこからおもむろに歩き出したり走り出したり這い出したりして動き始める。いきなり、そのへんにいる人たちが立ち上がって、すっと動き始める。
ポーズ(休憩)を挟まずに、次々と身体表現が繰り広げられる。音楽は北欧の彼らと行動をともにしているオランダ人のミュージシャンが 隅っこに陣取り、ギターを弾いたりパソコンで電子音を出したりしている。ダンサーの動きを見ながら操作している、あるいは、好き勝手に音を出している。音に合わせて踊って(動いて)いるというよりも、あっちで鳴っている音と、こっちの人々の動きがたまたま出会ってシンクロしているといえばいいのか。見よう、聞きようによっては、緻密に計算され尽くしたパフォーマンスであるとも思える。
2時間余、たっぷり「カラダが創り出す空間」を堪能した。表現者たちはラフなシャツとパンツ、あるいはタンクトップやTシャツといういでたちで、色もバラバラ、何ひとつ統一された記号的要素はないのに、不思議な一体感を醸し出したボディパフォーマンスだった。
面白かった。芸術として、舞踊作品として非常に面白かったと言っていいのだが、専門的な批評眼をもたないので、私自身が受けた感銘をあまりうまく書き表わせないのが残念だ。
なにより、衝撃的なほどに感動したのが、彼らの「足」だ。
過去に何度もコンテンポラリーは観ているが、こんなに間近に裸足で踊る人の足を見たことはなかったかもしれない。昔、舞台にかぶりつきで鑑賞した覚えもあるが、たぶんその頃は「足」に関心がなかったのだろう。今回、私はダンサーたちの「足」ばかり見ていた。彼らの足は実に大きく、カッとゆびが開かれ、土踏まずはえぐられたように高く深く、中の関節がくるくる回るのが透けて見えるかのようなくるぶしをもっていた。ゆびも甲も土踏まずも「もの」を言う。足は高く振り上げられたり床を滑ったり、パートナーの脚や背の上を這ったりする。ダンサー自身の頭、体とは別の生き物が脚の先に付いているようにすら見える、「足」。
なんと力強い足だろうか。
男性も女性も、足による表現は、例外なく素晴しかった。
クラシックにおいても、ポワントを履いた足はその足首、甲、ふくらはぎでさまざまな感情表現をする。高度な技術と丹念に鍛え上げられた筋肉が備わってなければ、観客を魅了する表現はできない。
方法は違えど、裸足で踊るコンテンポラリーも同様である。
「足」は、最も重要なボディパーツかもしれない、ダンサーにとって。
思えば、娘は陸上競技者でもあったので、つねに足の痛みに泣かされてきた。
クラシックバレエと陸上競技とでは、筋肉の使いかたが異なるので鍛えかたも異なる。それは異なる方法で両方使えるようにそれぞれ鍛えればいいんでしょうといわれそうだが、人間の体は、ふつうの人間の場合だが、そんなに器用には働かないのだ。バレエと陸上、それぞれにとって不要な鍛えかたをしてしまうことが徒になり、鍛えてしまった結果本来使うべきでない筋肉をつい使ってそれぞれのパフォーマンス(踊るor走る)を行うと、無理が生じて痛みを発生するのである。
大腿部やふくらはぎの鍛えられかたの割に、娘の足は、土踏まずの筋肉が弱かった。そのため甲に痛みが生じた。リスフランとかなんとかいう傷病名だったり、筋膜がどうこういわれたり、外反母趾の症状もあり、骨折したり断裂したりはなかったけれども足の痛みのために踊れず走れずという日々が続く、といったことも経験した。舞台前のリハーサルで痛みが取れないと、ようやくこなせてきた難しい振り付けをけっきょくは平易なものに変更されたりする。陸上競技の試合や記録会前あるいは当日に痛むと当然ながらそれが記録に現れる。舞台も試合も、どちらも当日の本番一発勝負だから、痛みのせいで不本意に終わると大きな悔いを残す。
「まず休む。十分に休息を取ったら、土踏まずと足指の筋肉を鍛えるトレーニングを集中して行う。走るのも踊るのもそれからあと」
かかりつけの整形外科医が娘を診るたびに言った言葉だ。しかし、娘はバレエを休んだ時は走っていたし、部活を休む時は舞台のリハでびっしりだった。
娘の足はつねに悲鳴を上げていた。もっと足の声を聴け。もちろん、足だけではない、背中も腰も、つねに体はモノを言っている。その声を聴けるのは体の持ち主だけだよ。よく聴いて体の奥の変化を自分で感じ取らないと、ほかの人にはけっしてわからないのだから。10歳頃から娘は母親にそんなことを言われ続けてきた。
小学校で初めて足を捻挫したときに、わーわー、めそめそ、娘は泣いてばかりいた。途方に暮れて私は「泣いてても何がどうなんか、わからんっ」と一喝し、君の痛みは君にしか聴こえない体の悲鳴なのだということを、こんこんと言って聞かせた。
娘は、私の前では足の痛みを理由に泣かなくなった。しかし、浴室で、布団の中で声を押し殺して泣いていたことがよくあった。痛みが引かないまま本番を迎えざるをえなくて、やはり結果が芳しくなかった時は、その晩、こっそりと泣いていた。
例のダンス公演の感想を、娘にメールした。
「足がすごかったぞ。やっぱし、ダンスは足やで!」
返信が来た。
「足ね、足。らじゃー」
わかっているんだかなんなんだか。
*
足のケアは、何をするにせよ、重要だ。
老親の晩年を見ても、足が弱って歩けなくなることが活力を低下させてしまうのは明らかだ。
実は私自身、高校生の頃からスポーツが原因で足は故障ばかりしていた。きちんと治療せずに放置した結果、体は痛みのデパートと化している。親たちのような晩年を迎えないためにはどうしたらいいか真剣に考えなくてはならないが、自分のことを考えなくてはいけない時期というのは、たいてい子どものことがより重要であったりするのだ。
娘に書くメールの末尾には必ず足のケア忘れるなと書き添える。いたわって、よくマッサージして、ほぐして……etc.
「足」は脚の先に生息している「生き物」だからな。
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