2014年6月29日日曜日

Talk to her

ダンスを題材にした映画は数知れずあり、昔から好んで観てきた。いちばん古い記憶は『サタデーナイトフィーバー』だ。ジョン・トラボルタ演じる主人公には全然共感しなかったし、彼をカッコいいと一瞬でも思ったことはなかったが、映画そのものはとても好きだった。というより、映画を観ているあいだ、ずっとビージーズの音楽を聴きっぱなし状態になるということもあって、あれでビージーズのファンになった人は多いと思う。この映画に限っていえば、「『サタデーナイトフィーバー』が好き」と言うことは「ストーリーよりも音楽が好きだ」と言うのと同義といっていいだろう。私は中学生で、ちょうど外国のポップスに目覚め始めた頃で、手当り次第にいろいろなミュージシャンを聴きあさっていたところ、ビージーズはドンピシャではまった。今でも数枚のLPレコードを大切に持っている。そして『サタデーナイトフィーバー』の物語は全然覚えていない。
一躍スターになったトラボルタはこともあろうに世界のアイドルだったオリヴィア・ニュートンジョンと『グリース』で共演した。私の周囲にはオリヴィアに入れ込んでいる男子がちらほらいたような気がする。女子にも好きだという子は多かった。しかし私は例によってまったく関心がなかった。あつくるしいトラボルタと小じわだらけのニュートンジョンが高校を舞台にした青春ものミュージカル映画で高校生カップルを演じるなんて冗談はやめてくれと思ったが、けっきょく、この映画もすごくすごく好きだった。当時高校生だったので、『サタデーナイトフィーバー』とは違って人物の心理描写が直接胸に響いた。体育の授業で班別創作ダンス発表というのがあったが、私たちの班は『グリース』のクライマックスの曲を使い、振り付けも部分的に拝借して完成させた。当時はそこまでやる生徒は多くなかったし、なんといっても体操服(ジャージ)で踊るんだからパフォーマンス性は知れているけれども。しかし、楽しかった。ああ懐かしい(笑)。
そういえば娘も体育の授業で踊ると言ってたことがあったっけ。今はダンスが体育の必修単元になっているし、踊ることじたい、私たちの十代の頃のように大人の薫りのするものでは全然ないので、娘たちには力みもなければ非日常性を感じるふうもないのであった。

エアロビクスなるものが上陸した頃、『フラッシュダンス』が大ヒットした。ジェニファ・ビールスが可愛らしかったが、吹き替えと特撮の利用があまりにもはっきりわかるずさんさで、ダンスシーンはなかなか感動するのが難しかった。つまり興醒めだった。最初からそういうものだと思って観ればよかったんだな、たぶん。
ダンスとそれにまつわる物語を中心に据えたサクセスストーリー風の筋立てだと、やはりダンスの技術的なことが制作上の壁というかハードルになるから、プロによる吹き替えもやむを得ないということは、観客はわきまえておかないといかんだろうな。いわき市の実話をもとにした『フラガール』でも主役級のダンスシーンは吹き替えだったが、こちらはそれとはわからないように綺麗に撮られていた。松雪さんも蒼井優ちゃんもほんまにフラダンサーのようで、見応えがあった。
だが、「ダンスとそれにまつわる物語を中心に据えたサクセスストーリー風」映画でないなら、挿入するダンスシーンは最初からプロが出ればいいのであり、プロの作品を使えば説得力が増すのである。

ペドロ・アルモドヴァルの映画をこよなく愛する私は彼の作品を欠かさず観ようとつねに情報収集しているのだが、いかんせん大きな館にはかからない。京都では小さな館でもなかなかかからない。なぜ? なぜなぜなぜ??? しょうがないから、たとえば大阪の小さな館での上映機会など、数少ないチャンスをモノにしようともがくけれど、子育て真っ最中の身ではこれが容易ではない。思えば、映画を観にいくといえばスーパー戦隊シリーズか仮面ライダーシリーズかプリキュアシリーズだけ、という時期を経て、ドラえもんなどのアニメ、ハリウッド製の子ども向け映画、児童文学を下敷きにした洋画などに限定されていた。性的倒錯ものとか第二次大戦の傷跡ものとかディアスポラの悲哀的なものとかブラックコメディなどはやはり子連れでは観にいけないのであった。ペドロの作品はそんなわけでレンタル屋にDVDが登場し、旧作となってから観るしかなかった。子どもが寝静まってから夜中にひとりで観るのである。といって、私はこれがけっこう気に入っていたが(笑)。

2002年制作の『トーク・トゥー・ハー』を、やっと自宅のDVDプレイヤーにかけて観たのはいつだっただろうか。ひとりでこっそり観たので娘はまだ幼かったと思うのだが。
最初と最後にウッパダール舞踊団の舞台が使われている。冒頭は「カフェ・ミュラー」のワンシーンだ。当時の私はそんな舞踊作品のことは何も知らなかった。ただ、この映画にピナ・バウシュも登場するとは予備知識で知っていたのでそのシーンを待った。あ、この人だ。そう思ったらすぐその場面は終わってしまった。終わってしまったが、わずかな時間の中で強烈に感じたのは「体を意識することなく自在に操っている」ことだ。娘をバレエ教室に通わせながらつくづく感じたことのひとつが、「感情表現は意識しなければできないが、体を操作するテクニックは意識しているうちはできない」ということだ。ほんとうに上手に、綺麗に体を使って踊れる子は、手足の上げ下げなどをはじめとする動作そのものを強く意識することなく、体の中から動かせるのである。力みがなく、自然だが、普通の人にはできないことなのだ。
「カフェ・ミュラー」の女たちは目を閉じて憑かれたように歩いては壁にはりつき、手足を不規則に上げ下げする。その動きは奇抜でもなく美しくもないのに、舞台全体が超然としていて、釘付けにされる。何が起こるかわからないから一瞬も目を離せないのだ。

自在に体を操る女たちと、昏睡状態に陥って植物人間と化した女たち。
自在に体を操るダンサーが演じているのは目を閉じた女たちだ。彼女たちの動きを遮る椅子を、男が次々と退けていく。見えなくても女が好きに歩けるように。
植物状態となったそれぞれの女の周囲で、うろたえる男たちを尻目にただひとり、患者への深い愛情を支えに献身的な看護をする男。映画は彼の深すぎる愛とそれゆえの絶望を描いている。最後に挿入されるウッパダール舞踊団の舞台が、残された登場人物たちの未来への希望を映している。ペドロの映画はいつも、これでもかというほどの悲劇が幾重にも重なりもう救われない気分にされながら、必ず一筋の光を観客の心に差して終わる。生きていてよかった、生きていこう、という気にさせられる。
スペインの映画だけれど、スペインだからって安易にフラメンコ系のダンスを使わなかったところがいい。だってもうひとつの要素は闘牛だし、闘牛とフラメンコという王道でいっちゃうとコテコテになってしまったな、たぶん。

まさかピナ・バウシュがそんなに早く亡くなるとは思っていなかった。『トーク・トゥー・ハー』の冒頭は、とても心に残ったダンスシーンだったのに、私はその後ピナをとくべつに追いかけようとはしなかった。そしてそのまま、もう彼女の踊りを観ることは不可能になってしまった。人生、悔やんでも悔やみきれないことは多々あるが、ピナ・バウシュを観なかったこともそのひとつだ。観たいものはすぐにでも観ておかなくてはならない。ヴェンダースの『ピナ』を観て、つくづく思った。

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