2014年12月31日水曜日

Imagines!

「彼女は暇を持て余すのが苦手である」という文は日本語として成立するのか。いや、成り立たないな。「持て余す」という言葉が「処置に困る」という意味だ。ではどう表現したらよいだろう。
「暇を持て余す」=「空いた時間の処置に困る」ならば、「処置に困り果ててどうしたらよいかまったくもってわからない状態が続いている」ようなことを「持て余す」という語を使ってもう少しするっと表現できないか。
「彼女は暇を持て余し過ぎる」……言葉足らずなティーンエイジャーみたいだ。
「彼女はひどく暇を持て余している」……正確なんだけど、うーん。いまひとつ「どうしたらよいかわからない」感に欠ける。
「彼女は暇を持て余すことに慣れていない」……お。これ、いいんじゃないか? 


中高生時代、娘は分刻みで毎日のタイムスケジュールを自己管理していた。部活朝練、学校、部活放課後、お稽古、夜の自主トレ。その合間に食事と間食。定期テストがあるときは放課後の部活の代わりに試験勉強が入る。いつも時間割りをつくって、時刻の目盛りに沿って線を引いて区切り、「英語暗誦」「朝ごはん」「プリント見直し」「バレエ」「ランニング」「腹筋」などの項目を書き込む。そしてほぼ正確に計画したとおりに行動する。我が娘ながら見事なもんであった。もちろんうまくいかないときもある。何かに思いがけず時間を取られたときは、そのぶんをどこかで取り戻し帳尻を合わせた。とくにバレエのレッスンや自主トレの部分で時間の配分が狂ったときは必ず調整した。いっぽう、勉強の予定が狂ってメニューをこなせないことがあっても、それには執着せず放置した。……このあたりがポイントだったな。ま、ともかく、現代の子どもたちは忙しすぎると言われて久しいが、我が娘もご多分に漏れず多忙な子どもだった。

それでも小学生のあいだはめいっぱい校庭や公園で遊ぶのが常だった。
娘が小さい頃は、放課後のグランドは鬼ごっこやボール遊びをする子どもたちが必ずいた。公園に行けば年が上の子も下の子も混じってその時々で手を替え品を替え遊んでいた。つるつるの見事な泥だんごをもって帰ってきたこともあった。友達の振り回したバドミントンのラケットが頭にバシッと当たったこともあった。1年生のとき、玉なし自転車で初めて走れた現場に居合わせてくれたのは、近所の6年生の女の子たちだった。

中学生になると、そんなふうには遊ばなくなった。「遊ぶ」ためには何日も前から周到に用意して時間を確保しなければならなかった。娘が小さい頃は、仕事の休みの日曜日、あてもなく自転車を転がして、どこ行こう? なにしよう? 思いつくまま、鴨川に降りて水に足をつけたり、堀川通沿いの松ぼっくりを拾ったり。図書館で絵本を一緒に読み、飽き足らず抱えきれないほどの絵本と紙芝居を借りて持ち帰って、毎日毎夜読んだ。だが、そんなふうに、母の私と娘の共有できる時間は急速に減ってしまい、それぞれがそれぞれの役割を果たすために時間を使うようになっていった。私と娘はつねにかかわりあってはいるが、一緒に行動する時間といえば朝食ぐらい、という状態だった。今日も晩ご飯、一緒に食べられへんのか、という祖母のつぶやきを彼女はどう聞いていただろうか。食卓をともにすることを無上の喜びとしていた娘が、そのつぶやきに心を痛めないはずはなかった。だからこそ、三人揃っての夕食のチャンスは、絶対に譲らず確保した。稀なことだったが、ともに台所に立ち、食事の支度をすることもあった。しかし、そんなことは稀だった、ほんとうに。「今夜、8時半に帰ってご飯は9時には食べ終えるから、頼むで!」といった調子で毎朝タイムスケジュールを私に告げるのが日課だった。
そうした生活のおかげで、こなさなければならないメニューが盛りだくさんなときほど、娘は難なく消化した。高校に進学するとあれもこれもと生活はさらにタイトになったが、娘はむしろ生き生きと活力を増すばかりだった。一日にどれほどあれこれと詰め込んでもまったく苦痛にならないのだった。

ところがその逆の場合はまったくサマにならない。
暇であることに耐えられない。
寝るしかない。だから寝てばかりいた、たまの何もない休日などは。
本でも読みぃ、というと読んでみるものの、すぐ睡魔に襲われるのが常だった。
暇でいることが苦痛だった。
「暇で、死ぬ」
和室の畳に大の字になって寝転がって、そうつぶやいたことがあった。
贅沢もん。
そうはいうものの、これは実際ほぼビョーキだな。と、私は思っていた。

案の定、留学先では時にこの「暇すぎて死にそう」状態に陥っている。
学校は、休みの日もある。レッスンが午前中で終わるという日もある。ルームメイトが留守のときもある。友達が帰省中のときもある。自分の相手をしてくれる「誰か」も「何か」もないとき、どうしたらいいかわからなくなるのである。

学校が休みのときは、ほかのスタジオのオープンクラスに参加している。
街でウインドーショッピングするのは大好きだ。
美術館や古い城館の多い街だから、見学にもよく行く。
友達から流行りの小説本を借りて読んでいる。
寮にはオーディオルームがあるのでDVD観賞なんぞもよくする。

「でも暇や。1日24時間あるし。ずっと寝てられへんし」(最近の娘のメールより)

そういわれても私は、暇を持て余すような事態に長年陥っていないので、よいアドバイスはない。私の若い頃は暇さえあれば漫画を読み、漫画に飽きたら本を読み、お小遣いのあるときは映画館で名画3本立てを観た。どれもつまらないときは、ひたすら絵を描いていた。そんなことでじゅうぶん、時間をつぶせた。たとえば友達との約束が直前になって流れてしまって予定に思わぬ穴が空いたときなど、たしかにいきなり現れた手持ち無沙汰な空白を持て余すことがある。読みかけの本もない、そそられる映画も芝居もやってない、そんなときは、ぼーっと座り、コーヒーでも飲みながら、想像する。

もし友達と会っていたら。彼が、彼女が着ている服。履いている靴。かけている眼鏡。よく会う人が相手なら想像は乏しくなるが、ひさしぶりだったり、特別な約束だったりすると、逃がした魚は大きい、じゃないけど、やたら想像はたくましくなる。

そんな想像は意味なく虚しい、無駄なものだと笑われるだろうか。私は、そうは思わない。そんなふうにして想像し始めるととめどがない。友達はいつの間にか結婚衣装に身を包みシャガールの絵のように空を飛んだりする。私はいつの間にか友達の肖像画を描く画家になっていたりする。私の個展を観にきたロートレックが、いいモデルを紹介しようといってパリのキャバレーに連れて行ってくれ、艶やかに踊るジャンヌ・アヴリルと知り合い、互いの身の上話に花を咲かせてマブダチになる……。あの時代のモンマルトルにいたら、私は何をどう表現する人間になっていただろうか。ロートレックが大好きだけれど、もし同時代人であっても私は彼を愛しただろうか。早すぎる死に、泣いただろうか。

「お母さんは時間があったらそんなこと考えてんの?」(最近の娘のメールより)

いや、全然考えてない。
我が身を振り返れば、ほんとうに、そんなふうに、何の役にも立ちそうにない想像ごっこに時間を費やすことなど、ずっとずっとやっていない。
だけど私も、上で書いたようなバカな妄想ごっこに耽ったのは、大学時代と、留学時代がいちばん多かったように思う。いちばん多かったというより、ずっとそんな毎日だった。有り余る時間を、本と映画と芝居とライヴと酒に費やしても、まだ時間はいっぱいあった。モンペリエにいたときは、水道橋の上の公園で、陽の落ちるのを待った。その場所では空一面を染めながら沈む夕日を眺めることができた。夕日を見ながら、授業で覚えたフレーズを暗唱したりもした。前夜のタンブールの音を反芻したりもした。そんなふうに時間が過ぎていくほどに、私の心はモンペリエではない別のどこかにあったりした。気がつけば夕焼けは星空に変わっていて、公園を降りてすぐのところにあるカフェが賑わっていた。
珠玉のような、時間だった。
娘は、こんなふうに時間を費やすことを罪なことのように感じるのだろう。それは違うよといっても、すぐにはピンと来ないだろう。慣れていないのだ、時間を持て余すことに。だが持て余す時間のあることは素晴しいことなのだ、ほんとうに。
そのときは、無為にしか感じない、いたずらに過ぎていく時間を捉まえられない自分がただ未熟者に思えて惨めになる。だが、そんな気持ちもひっくるめて、若いときにしか生きることのできない得難い時間であり生であるのだ。大なり小なり、誰にもある。持て余すほどの時間。ハンドリングできない無意味。手応えのない空白。そんなものどもに直面したとき、ただ想像の翼を広げるだけで、無意味は宝石になる。想像しろ。何でもいい。姫になった自分、絵の中で踊る自分、革命の旗手となった自分、メジャーリーグでホームランを打つ自分。すれ違った幸せそうなカップルの心の中。ベンチで寝るホームレスの見る夢。向かいのテーブルでスマホをいじるイケメンの裸のお尻。想像してみろ。想像は想像を呼ぶ。物語は絵巻物になる。

いくつもの架空の絵を頭の中で描くうち、絵は絵に終わらず身体化されて、やがて自分の内からほとばしる表現となって外へ飛び出していく。それを意識化できたときに、もしも舞台人として生きていれば、唯一無二の自分の踊りとして、あるいは振付や演出として、舞台作品としてつくることができるだろう。

暇そうやな。
想像しろ!

2014年12月27日土曜日

Les petits rats 7



ここ数年手足の冷えが耐え難いものになっている。若い頃に限らず中年になっても、寒がりではあってもいわゆる冷えを苦痛に思うようなことはなかった。なのに、靴下は重ね履き、ズボンの下にスパッツまたは厚手タイツ、足首にはレッグウオーマが欠かせない。手は、手袋をしていては何もできないので、手の甲まで覆うハンドウオーマを重ねづけしている。でも、冷たい。冷たくて乾いてカサカサがさがさである。けっきょくは、寄る年波なのか。
ところでレッグウオーマもハンドウオーマも自分の手編みである。編んだのは何年も前だ。昔編んだものの残り毛糸や、あるいはもう着なくなった毛糸ものをほどいた糸で編み直したものなど、筒状にゴム編みでまっすぐ編むだけなのですぐに作れてしまうから、やたらとそういうものが私の手許にはある。
ここ何年か愛用しているのは、娘が幼い頃に編んでやったバレエのレッスン用のレッグウオーマだ。小さかった彼女が着けると膝上まですっぽり覆うことのできたレッグウオーマも、私が着けるとふくらはぎすら覆えない。そんなわけで足首あたりでたるませておく。温めたいところを重点的に温めることができるので、これでいいのだ。
こういう温め小物を使い出すともう着けずに過ごせなくなる。冬はどんどん寒くなる。着ても着ても寒いし、こすり合わせてもカイロを握っても手は冷たい。でも足は、五本指靴下+ふつうの靴下+スパッツ+レッグウオーマで、とりあえず落ち着く。

娘のクラスメートの男の子に、冬でも半袖半パンツで通学している子がいた。いつの時代もそんな超人的な子どもがひとり、ふたりいる。娘も、どちらかというと小さい頃はめっぽう寒さに強かった。寒い寒い〜と、帽子やマフラーをやたら着けるのが好きで、帽子、マフラー、手袋は私が編んだものを中心にいくつもいくつも持っていた。だが実際はそんなに寒がりではないので、ひとしきり遊び、温まったからだで帰る時には防寒具のことなど忘却の彼方だ。お気に入りの、母ちゃん手編みの小物たちを、学校に忘れたまま行方不明にしてしまったり、ふざけながらの帰り道に落としてしまってもう一度引き返しても見つからなかったり、そんなこともしょっちゅうだった。

そうして頻繁に失くされても、編むことそのものが楽しい私は、へこたれずに次々と編み続けた。バレエ小物はレッグウオーマくらいしか編むものがなかったので、いくつか編んだけれど、やっぱり、レッスンが始まるとすぐにからだが温まってしまうので外してしまい、けっきょくあまり必要なかった。そうこういってるうちに身長が伸びて、レッグウオーマも長さと幅が必要になるといくら単純な編みかたでも時間がかかるのでもうしなくなった。娘のレッグウオーマはあまりくたびれないまま私に引き継がれ、私が履き倒しているので、近年かなりくたびれてきている。

冬になり、娘のレッグウオーマを着ける頃になると、これを着けてレッスンスタジオに入っていく娘の後ろ姿を思い出す。ほかの子も、それぞれ思い思いのレッグウオーマをつけ、いっぱしのダンサーのように、背筋を伸ばし、ステップを踏んだ。幼く、ぎこちない動きが、やがて彼ら彼女らにとって、起床して歯を磨き顔を洗うといった一連のお決まりの動作のように、ごくあたりまえの普段の動きになっていく。そんな日の来ることなど想像もつかなかったけれど、いまたしかに娘はそういう日常を送っている。過ぎてみて月日はなるほど矢のごとく飛んでいくと実感するいっぽう、矢のような光陰の、その濃密だったことにも、振り返れば愕然とするのである。普段着を脱ぎ、タイツを履き、レオタードを着て、髪をシニヨンにまとめ、シューズを履き、レッグウオーマを着ける。そのひとつひとつの「儀式」のあいだ、子どもたちの脳裏には何が去来していたのか、娘はいったい何を思って「装束」を着け、稽古場に向かったのか。いまは知る由もない。彼女は夢中だった、いつも。そして私も、夢中だった。その夢中の中身は、ほとんど忘れてしまった。いったいどんな夢を見ていたのだろう。娘の道はもう娘のものだ、私は傍観者にすらなれないだろう。ただこうして、娘の足も温めたレッグウオーマを、冬が来るたび身に着けて、何考えてたんだろうな、あたしもあの子も、みんなみんな、まったく、などと思いながら、やはり、小さかった娘の稽古着姿を目に浮かべてひとり、笑いを噛みしめるのだった。


2014年9月30日火曜日

Tu peux danser!

今月発売されたさだまさしの新しいアルバムに、「君は歌うことが出来る」という歌が収録されているらしい。ある日ラジオから流れてきて知ったのだが、曲の前にパーソナリティの女性が「とてもよい歌です」と紹介したので聞き耳を立てていたら、ジャンジャカジャーンとやたら賑やかな伴奏がいささか耳障りである。なんだかうるさそうな歌だと思っていると、いやいやどうしてなかなかよい歌詞である。さすがはさだまさし、というところだろうか。聞けば編曲はアルフィーの高見沢らしい。私はアルフィーにはまったく興味をもたないままオバハンになったのでそういわれてもその特徴を思い描けないのだが、噂によればこの曲のイントロだけで「この音は高見沢だな」とわかる人にはわかるらしい。そうなんだ、へーえ。しかし、やっぱしちょっとうるさいので、この「君は歌うことが出来る」という歌は音に耳を塞いで歌声だけに耳をそばだてるべしである。

君は歌うことが出来る、というリフレインを「君は踊ることができる」に代えて、ダンサーを志すすべての若者に贈りたい。君はなぜ踊るの? なぜそれほどまでに踊りたいの、踊りたいという欲求は、何を起爆剤にしているの? きっと、理由なんかない、ただ好きだから、と君は答えるだろう。だけど、その「好きだから踊る」という純粋な気持ち、強い思いを、目の前にある目障りな障害物をちょいとのけるためだとか、怒らせるとちょっとマズい身近な誰かのご機嫌とりのためだとかに使うんじゃなくて、遥か未来で出会うはずの尊い誰かに向けてほしい。ほんの少し顎を上に上げれば君のまっすぐな視線は、その先が遠くへ遠くへ到達するはずだ。親にも、教師にも、あるいは友達にも、踊ることが好きなんだという気持ちをぶつけてきただろうし、これからもぶつけていくだろうけど、君が踊るほんとうの理由がそんな手近なところでうろうろしてちゃいけない。君が好きなことに全力で打ち込み体現する姿は、いつか君の踊りを観た人に限りない希望や勇気を与えるかもしれない。君の無言の身体表現の中に、力強いメッセージを読み取る人がいるかもしれない。君の手と、足と、ほとばしる汗に、忘れていた情熱や愛が再び体内にわき起こるのを感じるかもしれない。まだ見ぬ誰かの深い感動のために、君は踊ることができる。何もできない人間なんかない。自分は無力だ何もできないと卑下する態度は謙虚に見えて実は何もしないで目を塞いでいるための傲慢な言い訳だ。人は必ず何かを行い、何かをもたらすことができる。「できることなんか何もないよ」というのは浅はかな逃げだ。声の出る人は歌うことができる。体の動く人は踊ることができる。筆をもてる人は絵を描くことができる。歌を詠むことができる。心をもつ人には祈ることができる。
君は踊ることができる。



君は歌うことが出来る

作詞・作曲 さだまさし

君は歌うことができる
知らない名前の雨や
知らない季節の花や
知らない風の匂いを

君は歌うことができる
誰も使わない言葉で
誰も知らない言葉で
誰にもわかる言葉で

ありきたりの愛の言葉や
使い古された励ましの言葉
そんな言葉を捨てて
君は君の言葉で
歌うことができる

目の前に何者かに
決して媚びて歌を売るな
遥か未来で聴くはずの
尊い誰かのために歌え

いつか君の歌が遥か
時を超えて響くために
その遠い遠い未来へ
必ず届くように歌え

君は君の言葉で歌え
自分の声で泣きたいなら
僕は僕の言葉で歌う
自分の声で泣きたいから

君は祈ることができる
愛する人のために
見知らぬ誰かのために
自分以外のすべてのために

君は祈ることができる
傷ついた人のために
傷つけた人のために
それを恨む人のために


(後略)

2014年8月24日日曜日

Vacances d'été

夏休み。
留学先から一時帰国している娘。

先輩ダンサーの舞台を観にいったり、高校の先生に挨拶に行ったり、陸上部に顔を出したり、同級生とプチ旅行したり、幼馴染みとご飯食べたり、と忙しい。久しぶりの故郷が楽しくてしょうがない、という様子だったが、それも2週間くらい。3週めに突入した現在はもう飽きてしまって「早よ学校に戻りたいわあ〜」などとやたらつぶやく始末。
ほげーと過ごせばいいのにじっとしていられない性分で、毎日、人に会うか街へ出るかしてちっとも家でゆっくりなんかしていない。誰に似たんだか。母は暇さえあればごろ寝を決め込むというのに。

友達とご飯食べてたら口の中でガチッと音がして、何かと思えば奥歯が欠けた、という。生まれてこのかた虫歯ゼロを誇って来た娘だが、とうとう、削って銀歯を補填する羽目になった。いままで歯に何も問題なかったのは幸運に尽きるが、きっとこれから先はけっこう歯のトラブルに悩まされるに違いない。なんつっても私の娘だからな。

私は幼い頃からしょっちゅう歯医者通いをしていた。歯並びはすこぶる悪く、きれいに並んでいない歯はお約束のように必ず虫歯になり、ある日突然欠ける。大人になってからもそんな生活を繰り返した。私は乳製品が嫌いだし、カルシウムが大きく不足していたかもしれないが、こと歯磨きにかんしては真面目にきちんと取り組んでいたはずだった。なのに、私の歯と歯茎はいつもとても不健康なのだった。
痛みを感じて歯医者を受診するたびに、歯周病の恐怖を説かれ、定期検診の必要性を説かれた。でも私は定期的に歯医者ヘ行くなんてまっぴらだった(みんなそうよね?)。そういう心がけだとじきに歯周病になるぞとイケズな歯科医にいわれつづけたけど、いままでなってないもんね。
20年くらい前に「10年後くらいには総入れ歯を覚悟してください」なんていわれて、その「10年後」が到来したときは「このままだっとあっという間に総入れ歯ですよ」といわれた。しかし、それからさらに10年経った今、歯科医は既存の歯の健康を維持するために「部分入れ歯」の導入を薦めた。でも、いくら「部分」でも、「歯を付け外しする」という行為だけで一気に老け込みそうだ。そう思ってそのとおりのことを述べる。
「歯を付け外しするのって、ちょっとまだやりたくない気分かな……若ぶる気はありませんけど」
「だろうね。だよね」
「この次、もうにっちもさっちもいかなくなったら部分入れ歯でも総入れ歯でも、諦めます」
「そうだね。今回部分入れ歯は廃案、ブリッジにしましょう」

歯の治療の顛末は、昔話も含めて娘によく話して聞かせた。そのたび娘はフンと鼻で笑って「おきのどく〜」などとつぶやく。おい、きみにもこういう運命が待ち受けているかもしれないのだぞ。
「なんやかんやいうてもけっきょく入れ歯してへんやん。まだイケてるってことやん。若いっていうことやん」と激励のような慰めのようなセリフを吐いたあと、「そやし、ウチも大丈夫やわ、絶対」と自信たっぷり。

しっかり噛む。人間はその体力・体格をしっかり噛んで食うことで維持している。噛んで砕いて、飲み込む。噛んで砕くことをおろそかにしたら飲み込む時につっかえる。無理に飲み込んだら内蔵が消化吸収するのに差し障る。
「噛む」は基本であり、最重要アクションである。歯の丈夫な人は健康で長生きだし、すぐれたアスリートはきっと頑丈な歯を維持しているだろう。
現在娘は腹八分目を心がけていることもあるが、食事の量は少ない。だが、非常によく噛んで食べる習慣が身についているので、わずかな量の食事を長い時間かかって食べることになる。娘がまだ小学生のときは、クラスメートが残す給食も全部引き受けるほど大食いだった。また、(これは日本の公教育の多大な欠陥だと思うが)昼食時間が非常に短く、早く遊びに行きたいこともあって、ぱくぱくぱくごくごくごくっと食べていたようである。私が口うるさく「よう噛みや」と呪文のように唱え続ける家での食事も、娘は早く食べていた。だが中学生になり体がどんどん成長してくると、早食いは太ると誰かに吹き込まれたのか、大食いながらゆっくり食べるようになった。するとほんとうに体はムキムキ隆々と成長し、まさにひと噛みひと噛みが血肉になっていた。惚れ惚れするような筋肉が、全身を覆っていた。

残念ながらムキムキ筋肉マンのような体はバレリーナには必要ないので、高校生になって娘はダイエットを敢行した。極端に食事を減らしたが、栄養欠如にならないように食品を厳選して、そしてやはりよく噛み、体のすみずみまで送り込むように、ゆっくり食べた。
ひと口ひと口を大切に、食べた。
おかげで、拒食症だとか、精神を病んでしまうといった極端なダイエットにありがちな副作用には遭わずに済んだ。それは本当によかったと思っている。
しかし、やはり痩せたことで体全体の「巡り」が衰えた。冷えがちになり、しもやけなど血行の悪いことが原因で起こる現象が頻発し、症状もひどかった。免疫能も低下し、感染性の外傷は容易に悪化した。今、娘には、食事制限は御法度で、きちんとバランスよく食事を摂ることが至上命令である。本当はスイーツ厳禁なのだが、10代女子にそれは不可能(笑)ということで、ちゃんと栄養たっぷりの食事をすることを守るなら少しは食べてもいい、ということになっている。

歯を大切にして、健康な歯でひと噛みひと噛み大事に食べて、摂った栄養を無駄なく体力と体格の糧にしよう。明日の君は今日食べたものでできているのだ。だからホンマに虫歯には気をつけてな。

2014年7月7日月曜日

Les petits rats 6


ある年の発表会楽屋風景。舞台メイクは、中学1年生になったら自分で行うよう指導を受ける。それまでは、教室の講師陣が子どもたちの顔をひたすら「描き、造る」。なかなかスゴイ顔になるのだが、舞台に立つとそれほどコテコテに描いているようには見えないから不思議だ。ただし、子どもたちはそれぞれぐっとその母親の顔に近づいて見える。「そっくりやね」と、母親たちはお互いを慰めるでも納得させるでもない、なんだか中途半端な共感と連帯感を覚えるのであった(笑)。

1枚めの写真で娘のメイクをしてくれている講師は、バレエ学校を卒業後すぐ当教室でレッスンを受けながら指導助手を務め、バレエ教師としての経験を積んできた人だ。緩急を使い分け、子どもたちをよく笑わせ、叱るときはびしっと容赦ない。教師としてもダンサーとしても一貫した考えを持っていて、それは学園長である自分の恩師と食い違うことも時にはあったようだが、意見は意見として述べても師の影はけっして踏まない人だった。だから学園長も彼女を重宝し、可愛がった。もちろん、生徒にも慕われた。
娘もこの講師が大好きだった。いつか、娘を評して「すごく、わかってくれるんですよ。私の指摘したことの真意とか、私の言いかたがマズくて伝わらないんじゃないかと思ったときも、ちゃんと意図を読み取って、理解してくれる。そして次に動いたときにはその結果をすぐ出してくれます」と言ってくれた。いいことばかりを過大に述べられたとしても、親は嬉しい。娘に伝えると「先生も、ウチが訊きたいこと、全部言わんでもわかってくれはる。どう動いたらいいか、今の動きのなにが悪いんか、訊きたいけどうまく言葉を組み立てられへん時あるねん。でもみなまでいわんでもわかってくれはって、教えてくれはる」という。なるほど、キミタチ、以心伝心。相思相愛(笑)。

娘は出発前、この講師の舞台を最後に見て涙が止まらなかったと言った。ほかの先生との別れは辛くないけど……。講師は離島の出身で、昨年度限りで教室を退職し、故郷で自分のバレエ教室を開業する運びとなったのだった。昨秋、その計画を公にする前に、日本を離れるうちの娘にはこっそり告げて、「もうこの教室では教えていないけど、たまには戻って先生たちに顔を見せたげてね。そして私の教室も覗きにきて」

結婚や出産、あるいは新天地を求めて去っていった先生たち。みんな若く美しい女性たちだ。その20代、30代の輝きを増すばかりの時間を躾のなってないワガママな子どもたちを教えることに費やし、時には親たちの苦情や陳情(?)にも対応し、人生何事も経験とはいえ並大抵ではなかったことだろう。去っていかれた先生たちも、今も教え続ける先生たちも、それぞれが幸せであってほしいと思わずにいられない。講師たちの振る舞いや生きかた、踊りに向かう姿勢はそっくりそのまま子どもたちにとって最も身近な手本であり、事例集でもある。感化されやすいうちの娘などは幾度も「○○先生みたいになる」と誓いを立てた。ある重要なタイミングでドンピシャなアドバイスや叱咤を受けると、いつまでも心に残る。故郷へ戻った講師は、幾つもの至言を娘に残したという。ただ娘がいうには、それほど重要な言葉を相手に向かって投げたとは「たぶん意識したはらへん」そうだ。

効果的な指導とは得てしてそんなものかもしれない。大上段に構えて「どうだこれから大事なことを教えてやるぞ、よく聞けよ」みたいな物言いで臨むと弟子は逃げる。というより、そんなものは師弟関係ではない。師であり弟子であるというのは、お互いに腹を探っているとでもいおうか、そのココロは、その真意はと、お腹の裏側を読み取ろう、その言葉の行間を吸収しようと、ある一定の距離を保ったまま、互いを信じることである。多分に弟子のほうが一方的な片思いであるけれども、自分を信じる弟子に師は応えようとするものである。弟子にとって師の言葉は、それが戯れ言やオヤジギャグでも信じられる。ヒントになる。そして自身に反映できたとき、弟子であることを実感できる。

バレエなど身体系のお稽古事では、小学生のうちはこうした「師弟関係」がごくごくシンプル&ピュアに形成されている。だから子どもたちは素直にすくすく伸びていくのである。講師の優劣よりも、どちらかというと子どもたちの素直さ、伸びしろの大きさがものをいう。一心に打ち込み、先生みたいになりたいとわかりやすい夢を描くことが、最大の糧なのだ。

願わくば、場所が変わっても、自分にとって最良の師といえる人と再び出会い、師から可能な限り吸収して成長の糧にしてほしいもんだ。

2014年6月29日日曜日

Talk to her

ダンスを題材にした映画は数知れずあり、昔から好んで観てきた。いちばん古い記憶は『サタデーナイトフィーバー』だ。ジョン・トラボルタ演じる主人公には全然共感しなかったし、彼をカッコいいと一瞬でも思ったことはなかったが、映画そのものはとても好きだった。というより、映画を観ているあいだ、ずっとビージーズの音楽を聴きっぱなし状態になるということもあって、あれでビージーズのファンになった人は多いと思う。この映画に限っていえば、「『サタデーナイトフィーバー』が好き」と言うことは「ストーリーよりも音楽が好きだ」と言うのと同義といっていいだろう。私は中学生で、ちょうど外国のポップスに目覚め始めた頃で、手当り次第にいろいろなミュージシャンを聴きあさっていたところ、ビージーズはドンピシャではまった。今でも数枚のLPレコードを大切に持っている。そして『サタデーナイトフィーバー』の物語は全然覚えていない。
一躍スターになったトラボルタはこともあろうに世界のアイドルだったオリヴィア・ニュートンジョンと『グリース』で共演した。私の周囲にはオリヴィアに入れ込んでいる男子がちらほらいたような気がする。女子にも好きだという子は多かった。しかし私は例によってまったく関心がなかった。あつくるしいトラボルタと小じわだらけのニュートンジョンが高校を舞台にした青春ものミュージカル映画で高校生カップルを演じるなんて冗談はやめてくれと思ったが、けっきょく、この映画もすごくすごく好きだった。当時高校生だったので、『サタデーナイトフィーバー』とは違って人物の心理描写が直接胸に響いた。体育の授業で班別創作ダンス発表というのがあったが、私たちの班は『グリース』のクライマックスの曲を使い、振り付けも部分的に拝借して完成させた。当時はそこまでやる生徒は多くなかったし、なんといっても体操服(ジャージ)で踊るんだからパフォーマンス性は知れているけれども。しかし、楽しかった。ああ懐かしい(笑)。
そういえば娘も体育の授業で踊ると言ってたことがあったっけ。今はダンスが体育の必修単元になっているし、踊ることじたい、私たちの十代の頃のように大人の薫りのするものでは全然ないので、娘たちには力みもなければ非日常性を感じるふうもないのであった。

エアロビクスなるものが上陸した頃、『フラッシュダンス』が大ヒットした。ジェニファ・ビールスが可愛らしかったが、吹き替えと特撮の利用があまりにもはっきりわかるずさんさで、ダンスシーンはなかなか感動するのが難しかった。つまり興醒めだった。最初からそういうものだと思って観ればよかったんだな、たぶん。
ダンスとそれにまつわる物語を中心に据えたサクセスストーリー風の筋立てだと、やはりダンスの技術的なことが制作上の壁というかハードルになるから、プロによる吹き替えもやむを得ないということは、観客はわきまえておかないといかんだろうな。いわき市の実話をもとにした『フラガール』でも主役級のダンスシーンは吹き替えだったが、こちらはそれとはわからないように綺麗に撮られていた。松雪さんも蒼井優ちゃんもほんまにフラダンサーのようで、見応えがあった。
だが、「ダンスとそれにまつわる物語を中心に据えたサクセスストーリー風」映画でないなら、挿入するダンスシーンは最初からプロが出ればいいのであり、プロの作品を使えば説得力が増すのである。

ペドロ・アルモドヴァルの映画をこよなく愛する私は彼の作品を欠かさず観ようとつねに情報収集しているのだが、いかんせん大きな館にはかからない。京都では小さな館でもなかなかかからない。なぜ? なぜなぜなぜ??? しょうがないから、たとえば大阪の小さな館での上映機会など、数少ないチャンスをモノにしようともがくけれど、子育て真っ最中の身ではこれが容易ではない。思えば、映画を観にいくといえばスーパー戦隊シリーズか仮面ライダーシリーズかプリキュアシリーズだけ、という時期を経て、ドラえもんなどのアニメ、ハリウッド製の子ども向け映画、児童文学を下敷きにした洋画などに限定されていた。性的倒錯ものとか第二次大戦の傷跡ものとかディアスポラの悲哀的なものとかブラックコメディなどはやはり子連れでは観にいけないのであった。ペドロの作品はそんなわけでレンタル屋にDVDが登場し、旧作となってから観るしかなかった。子どもが寝静まってから夜中にひとりで観るのである。といって、私はこれがけっこう気に入っていたが(笑)。

2002年制作の『トーク・トゥー・ハー』を、やっと自宅のDVDプレイヤーにかけて観たのはいつだっただろうか。ひとりでこっそり観たので娘はまだ幼かったと思うのだが。
最初と最後にウッパダール舞踊団の舞台が使われている。冒頭は「カフェ・ミュラー」のワンシーンだ。当時の私はそんな舞踊作品のことは何も知らなかった。ただ、この映画にピナ・バウシュも登場するとは予備知識で知っていたのでそのシーンを待った。あ、この人だ。そう思ったらすぐその場面は終わってしまった。終わってしまったが、わずかな時間の中で強烈に感じたのは「体を意識することなく自在に操っている」ことだ。娘をバレエ教室に通わせながらつくづく感じたことのひとつが、「感情表現は意識しなければできないが、体を操作するテクニックは意識しているうちはできない」ということだ。ほんとうに上手に、綺麗に体を使って踊れる子は、手足の上げ下げなどをはじめとする動作そのものを強く意識することなく、体の中から動かせるのである。力みがなく、自然だが、普通の人にはできないことなのだ。
「カフェ・ミュラー」の女たちは目を閉じて憑かれたように歩いては壁にはりつき、手足を不規則に上げ下げする。その動きは奇抜でもなく美しくもないのに、舞台全体が超然としていて、釘付けにされる。何が起こるかわからないから一瞬も目を離せないのだ。

自在に体を操る女たちと、昏睡状態に陥って植物人間と化した女たち。
自在に体を操るダンサーが演じているのは目を閉じた女たちだ。彼女たちの動きを遮る椅子を、男が次々と退けていく。見えなくても女が好きに歩けるように。
植物状態となったそれぞれの女の周囲で、うろたえる男たちを尻目にただひとり、患者への深い愛情を支えに献身的な看護をする男。映画は彼の深すぎる愛とそれゆえの絶望を描いている。最後に挿入されるウッパダール舞踊団の舞台が、残された登場人物たちの未来への希望を映している。ペドロの映画はいつも、これでもかというほどの悲劇が幾重にも重なりもう救われない気分にされながら、必ず一筋の光を観客の心に差して終わる。生きていてよかった、生きていこう、という気にさせられる。
スペインの映画だけれど、スペインだからって安易にフラメンコ系のダンスを使わなかったところがいい。だってもうひとつの要素は闘牛だし、闘牛とフラメンコという王道でいっちゃうとコテコテになってしまったな、たぶん。

まさかピナ・バウシュがそんなに早く亡くなるとは思っていなかった。『トーク・トゥー・ハー』の冒頭は、とても心に残ったダンスシーンだったのに、私はその後ピナをとくべつに追いかけようとはしなかった。そしてそのまま、もう彼女の踊りを観ることは不可能になってしまった。人生、悔やんでも悔やみきれないことは多々あるが、ピナ・バウシュを観なかったこともそのひとつだ。観たいものはすぐにでも観ておかなくてはならない。ヴェンダースの『ピナ』を観て、つくづく思った。

2014年6月18日水曜日

L'intention de l'auteur est strictement respectée.

自慢じゃないけどヴィム・ヴェンダースにインタビューしたことがある(自慢だけど。笑)。とはいってももう16、7年前のことだ。偉大な映画人であり、当時の日本でもすでに著名な人であった。と、こんな書きかたをするのは、すぐれた映画をつくる人が著名であるとは限らないからだ。とりわけ日本では、出演俳優ばかりにスポットがあたり、つくる人、描く人はどうも裏方扱いされる傾向にある。ここ数年、ようやく監督の名前が先行する映画が出始めたように思うけれども。
それはともかく、ドイツ人映画監督で誰を思い浮かぶ?と訊かれて「ヴィム・ヴェンダース」と答える人がそれほどいるとは思えない。といってほかの監督の名前を挙げられるか? フリッツ・ラングやペーターセン。え、ドイツ人だったの?なんて声も聞こえてきそうだ。なんてこと、と嘆く映画ファンもいるだろうけれど、知らないということ、関心がないということはこういうことなのだ。
『パリ、テキサス』で日本の一般映画ファンの心もとらえたヴェンダースだが、観客はこの映画を観る時に撮ったのがドイツ人映画監督であるという知識は必要ない(ほんとはそのへん意識したいんだけどさ)。映画にドイツは全然出てこないからだ。極端な大ヒット作『ベルリン 天使の詩』によってその名声は世界中に轟いて、ヴェンダースは世界のあちこちを舞台に独特の視点で作品を撮るドイツ人映画監督だと、日本でもようやく認識されるようになったのではないか。というより、映画関係者にとって「神」に近い存在となって初めて、一般人にとっての「あ、その映画監督知ってるよ」くらいの著名な映画監督となる、といってもいいだろう。

97年、大阪で開催される映画祭の特別ゲストとしてヴェンダースが来る、と聞き私は小躍りした。私も単なる一般映画ファンなので、ヴェンダースについては何も知らなかった。『パリ……』と『ベルリン……』を観ただけだ。だけだが、元来アンデパンダンな映画を愛好する者にとってやはりこれらの作品は革命的な存在だった。
さらには、やはりつくる人の話はなにがなんでも聴きたい、という欲求があった。
大阪の映画祭の機会には何度か監督や撮影カメラマンの取材をしたが、つくり手の話を実際に聴くと映画というものへの愛が一気に深まるのを実感した。スクリーンの向こう側に敷かれた幾重ものつくり手たちの意図が映画を醸成しているかと思うと、その厚みや織りに思いが延びて感動が膨らむ。そんな経験から、ヴェンダースが大阪に来るなら絶対に話を聴きたい! と思ったのだったが。

「俺たちのために時間なんて取れないって」と編集長。映画祭主宰者側からの連絡は「無理」だった。主宰者は編集長と友達なのに。「なんとかならないのかなあ」と私。
『ベルリン……』のあと、日本における上映ではメガヒットを記録したものはないのに、彼が来日するとなるとそれはもうVIP中のVIP、破格の扱いだった。TVや大新聞、専門誌の取材が目白押しだった。はあ〜、観客として舞台挨拶を観る程度かあ。
しかし、朗報来たる! 「××TVの番組撮影の直前に数分間取ってくれることになったよ」。やった!
「俺、その日は行けないから、行ってくれよ」と編集長。「へ?」と私。「ヴェンダースのいい表情も、撮ってこいよ」「へ? 私ひとりで行くの? え、でも何語で話すの、私、英語できないよ」「ヴェンダースはフランス語ペラペラだよ」
いや、だからって、そんなビッグゲストにひとりでなんて……と大喜びしたのも束の間、大きな不安に苛まれる私。編集長は愉快そうに笑って「心配すんなよ。インタビュアーはもうひとりいるからさ」

もうひとりのインタビュアーはパリ在住の大学院生だった。日本人女性で、映画論だかなにかを研究している。そんな学問が成立するのね。研究論文執筆のために、映画のつくり手を直接訪ねて取材を重ねていた。ちょうど帰省するのと、ヴェンダースの来日とのタイミングが合い、こちらの取材に同行できることになったのだ。
事前に彼女がヴェンダースに訊ねたいことをリストアップしてきた。時間がないので話をどんどん突っ込んでいくわけにはいかない。しかし、もう二度とない機会だろうからこれだけは訊きたい、という彼女の意向は尊重したかった。回答の内容も想定し、こうきたらこう訊く、そう答えたらこっちへ転換、みたいな「予行演習」もした。
しかし、多くの場合そんなものは当日実際に相手と対峙すると吹っ飛んでしまうのだ。

当日、ヴェンダースの宿泊するホテルのロビーヘ行くと、映画祭実行委員長が私たちに「7分間」と言った。みじかっ。「君たちが取材している間、TVのクルーが機材のセッティングでガチャガチャやるけど、我慢してくれよな」

取材用の部屋ヘ行く。待つこと数分。ヴィム・ヴェンダースが実行委員長と一緒にやってきた。私たちは簡単に自己紹介をした。ヴェンダースは彼女に向かって「パリで映画の研究をしてるの? テーマは何?」なんてのんびり話しかける。彼女はその問いに手短に答えたあと「すみません、ムッシュー。時間がありません」「え、そうなの? 何分間?」「7分です」「おやおや」
私はすでに柔和なヴェンダースの横顔に向かってシャッターを切り続けていた。
心得たヴェンダースはこちらの問いに的確に明快に答えてくれ、その答えに対してインタビュアーがさらに質問を重ねてくるだろうことも想定して話を続けてくれた。取材慣れしているといえばそれまでだが、私たちのような学生と素人に対し、映画人としての自分の立ち位置、自分が映画を撮る意味、映画界になお残る悪弊などあますところなく語ってくれたのである。7分の間に。

《ヨーロッパの映画はアンデパンダン(独立している)です。作家の意図は完全に尊重されます。》

映画には巨額の製作費がかかる。映画のつくり手はスポンサーの意向を無視してはつくれないとしても、誰がそのことを責められるだろうか。しかしヴェンダースは、資金提供の源がどこであれ、それがいくらであれ、それに左右されるものはアンデパンダンではないと断言する。ヨーロッパでは当時すでに国境を越えた合作映画が盛んに製作されていたが、それじたいは喜ばしいことであり、いずれ国籍など問われることのない時代が来るだろう、とも言っていた。そのいっぽう、規模が大きくなり過ぎて、またスポンサーへの気遣いから作家が自分の表現を見失うとアンデパンダンに逆行する。そのとき「作家はアイデンティティを失います」

なぜ、ヴィム・ヴェンダースとの7分間を思い出したかというと、最近『Pina』のDVDを借りて観たからだ。

ピナ・バウシュの踊りはとてつもない。ピナはそれまでのダンスの常識を次々に破った人だ。ピナのもとで踊るダンサーたちの肉体の迫力にも圧倒される。
しかし、激しく奇妙な振り付け、予想を裏切る演出の続く舞台はたしかにエモーショナルだが、その映像の素材感、構成や撮影手法がたいへん「ヴェンダース的」で、あまりの懐かしさに胸がいっぱいになったのだった。静かな、ピナ・バウシュ追悼の映画だった。ピナもまた、意志を貫き通した表現者だった。ヴィム・ヴェンダースは、いち表現者としてピナ・バウシュの創作への姿勢に通底を感じていた。映画には、同志をなくしたヴェンダースの悲しみが満ちてスクリーンからつつつ、とこぼれるかのような、そんな湿度が感じられる。

2014年5月23日金曜日

Les petits rats 5


バレエを習わせ始めて1年くらい経った頃、私は早くも挫折しそうになっていた。仕事がうまくいっていなかったこともある(会社は事務所を畳むわ、ボスは後片づけを放棄して帰国するわでほんまにもうっ……という状態だった)けれども、それよりもこの環境でいつまで正気を保てるだろうかと(笑)かなり自信がなかった。「この環境」というのはいわずもがな、バレエ教室に通う子どもは裕福な家庭が多数派であるということであり、(えせ)セレブな奥様たちの天国状態、という環境のことである。
奥様たちとは価値観も異なれば話も合わないが、不幸中の幸いは多数派の中に「お下品な人たち」があまりいなかったことだ。経済的な豊かさと品格は比例しないし、現代日本ではほとんど関係ない。したがって「この環境」の中でも、ときたまとんでもない人に遭遇する。しかし、娘が所属していたクラスの場合に限るのかもしれないが、とんでもない人々は早々に去った。セレブも苦手だが、お下品はもっと苦手だ。なぜなら、ふと気を緩めるとそっちへ引っぱられてしまう自分を、否定できないから。人間というものは転落するほうが簡単なのである。

幸い多発しなかった「お下品な人たち」はさておく。
そんなわけで、裕福な多数派に混じって、出てくる話題に内心びっくり仰天しながらも(笑)会話を成立させる健気なワタクシ。適当に相槌打って、おほほと笑っていればやり過ごせる。とはいえ、なかなか、いつまでたっても慣れないのであった。1年に2回、発表会があるけれども、本番が迫ってくると土日には通し稽古が入れられ、親も子も休日返上となる。子どももたいへんだが、我が子がちゃんとしてるかどうか気が気でない保護者たちは長時間レッスンを見学したり、終了時刻に迎えに来ても練習が長引いて延々と待機したりする。こういう時間の潰しかたに、私は慣れずにいたのである。こうした時間を「多数派」たちとおしゃべりをして過ごす……。これでも繊細なワタクシは(笑)、かなり絶望的な思いにとらわれていた。かくして、2年目の秋の発表会は出演を辞退することにしたのだった。

娘が小学校に上がってすぐ、私は前述したように仕事を失くした。正直、いろいろなことで疲弊しきっていた。現況から脱出したかった。アタマを干しココロの洗濯。もちろん、そんなふうには言わず、夏休みはフランスヘ行こうよ、長く休みをとれるのはめったにない機会だから、と言った。娘は旅行が好きだから、わーいと喜んだ。

6月ごろから、9月の発表会に向けた練習が始まり、7月になると本格化するが、出演しない子どもたちは臨時クラスが設けられ、年齢を問わずレッスンはその時間帯に一本化される。ほうり込まれる感じだ。出演しない子でレッスンに来る子というのはとても数が少ないので、意外ときめ細かくレッスンされてよいのだが、疎外感は否めない。

9月の秋の発表会は、私たち母娘は客席で観覧した。たいへん楽しく舞台を鑑賞できた。しかし娘ははっきりと言った。「来年は、ぜったい出る」

発表会を休むことが、自分にこれほど大きな喪失感をもたらすとは! ……と、思ったかどうかはわからないが、一度発表会を休んだことで却って舞台への執着心を喚起してしまった。発表会に出なかったのは、あとにも先にもこの小学1年生の秋だけである。そっか、来年は出るってか……出たいのか、やっぱし。私は、あわよくば「発表会、1年に1回出られたらええわ」と言わせようと思っていたが裏目に出てしまいましたの巻、となったのだった。まじめにしっかりお稽古せなあかんよ、お稽古中お友達とふざけたりしたらあかんよ、と、けっしてふざけることなく真面目に練習している娘に向かって、大きなお世話の念を押した。

秋が深まると、翌春3月に行われる春の発表会の配役が決まる。小学校低学年までは群舞しかあたらないが、それでもどのパートを踊らせてもらえるのか、子どもたちはワクワクして配役の発表を待つ。クラスごとに受け持つパートが決まると、振り付けが始まる。
我が娘は水を得た魚のように、以前にもまして喜び勇んでレッスンに向かうようになった。低学年クラスは1年生から3年生までが一緒に練習する。最初のうちはとても大きく感じられた3年生のお姉さん生徒たちだったが、小さいなりに、先輩の得手不得手が見えてくるようになる。「Bちゃんはぴたっと止まれへんからいつも注意されたはる」「Cちゃんは足上げた時膝が伸びてきれい」

一度だけ、恐れ多いことに、先輩に「意見」したことがあったそうだ(笑)。
腕、もうちょっと上と違う?みたいな、ちょっとしたことだったらしいけど、その3年生は「アンタに言われたない」と言い返したそうだ。おおこわ(笑)
娘は、言い返されたことを気に病む様子はまるでなく、先輩のその癖を「直したらすごくきれいやのに。そしたらみんなとも揃うのに」と案じてみせる。君、余裕だな(笑)。しかし人のことより、自分のことは大丈夫か。そんな親の心配をよそに、どこ吹く風でレッスンを満喫する我が娘。ほんとうに、楽しそうである。

そろそろ「オンナ」が顔を出す小学生。ちょっぴり火花を散らしながらの練習を彼女たちなりに懸命にこなし、総勢約40人の低学年2クラスによる妖精たちの踊りは、なかなかに迫力があった。いや、親バカですけどね。どの子も上手に見える振り付け、配列には無理がなく必要十分で、よく考えてあるなあと前年同様感心した。

最初に書いたように、発表会があると保護者どうしのコミュニケーションが活発になるのだが(笑)、私はもう腹をくくった。
こんなんたいしたことちゃうわ、と開き直ることができたのは、バレエ教室に向かう娘のまなざしになんともいえない真剣さが見えたからだ。もちろんまだまだ頼りなげだが、その瞳には充実を実感する者だけが見せる輝きがあった。その真剣さがほんとうにホンモノとなって結実するかどうかなんてわからなかったし、問題はそのことではなかった。そうではなくて、私の都合で娘の好奇心や向上心を左右したり遮断したりすることは論外なのだ。私は改めて肝に命じた。えせセレブ奥様なんかこわくないわよ。有閑マダムトークがなんぼのもんじゃい。というわけでイバラの道は続いたのであった(笑)。

2014年5月11日日曜日

Les chaussures? Non, les pierres!

『靴に恋して』というスペインの映画を観た。図書館でDVDを借りたのだ。

ここ数か月、まめに近所のレンタル屋に通っていたのだが、そこで扱っている映画(ドラマ)の種類は90%が次の3種類。邦画、ハリウッド、韓流。
だからフランス映画もスペイン映画も借り尽くした。上質の英国もの、イラン映画、フィンランドのアキ・カウリスマキ監督作品、そういう「これ」っつうDVDは全部、借りて観てしまった。「お客様、こちら以前にもお借りですけど間違いなかったですか」なんて、パソコン画面の貸し出し履歴を見た店員がご親切にも確認してくれる。ええ、ええ、知ってるよ2回目よ、好きなのよお気に入りなのよその映画、それにアンタんとこ、ほかに借りたいもんないからさ、いいのよそれ借りるのよ。もっとヨーロッパのもん置いてよね。
というわけで、そうだ、図書館という手があった、しかも無料ではないか! と私はいさんで本だけでなくDVDをも図書館で借りる悦びを覚えてしまって、ちょっとヤバいのである。いや、だって、仕事がおろそかになっちゃいますもの。本とDVD、そんなに積み上げてどうするんだ私!

それはともかく、『靴に恋して』の主人公たちは「扁平足のアデラ」とか「外反母趾のマリカルメン」とか書いてあったので、そして原題の『Piedras』って、仏語で足を意味する「pied」と似ているから私はてっきり「靴」と「足」の話だと思って借りたのだ。そしたら全然違いました(笑)。

ここでこの映画の話をするのは趣旨と異なり、またこの映画の話が話だけに収拾つかなくなるので、ご興味のある向きは「靴に恋して」で検索をかけてもらい、たんまり出てくる映画評や感想の数々を参照されたい。

それにしてもほんとに、全然違ったんだぞ。「靴に恋して」なんつう邦題は詐欺だぞ。主人公の女たち、誰も靴なんかに恋していないぞ!!!
原題の『Piedras』の意味は「石」だそうだ。石だってえ?!



前回足の話を書いたけれども、スポーツや武道、舞踊など体を動かす者にとって足の痛みはつきものだ。だからフットケアはすごく重要。有森裕子さんがあるマラソン大会の解説をしている時に、「痛みがあると、ふつう、走れません」と断言していた。本番に痛みを持ち越すことはプレイヤーとして愚の骨頂、そして致命傷。だから、治して万全を期すことが理想だ。だけど、治らないことがよくある。こういうとき、治らないから本番を諦めるか、無理矢理、痛みを取り除くか。
私は「治す」のを優先させたい。それが成長中の子どもだったら、なおさらではないか。痛みに耐えてプレイする、そのこと自体は美しいかもしれないが、その後何年も痛みがあとをひく危険性があるのだ。いや、必ずそうなる。私がそれを経験済みだから、今なお若い時の古傷の痛みに悩まされる中高年となっちゃったから、そんな目に遭わせたくないとの思いから、いまの怪我はいま治す、いまの痛みはいま癒す、ことを徹底したいと思った。思ったんだけど……。

校庭でバスケットボールをして遊んでいて、友達と足が絡まって捻挫して転んだ。娘は5年生だった。学校近くの整形外科でレントゲンを撮り、湿布をされ、足首サポーターをはめられた。サポーターは簡易ギプスとでもいおうか、がっちりと足を包んでサポートするものだが、付け外しがとても簡単だ。自分が捻挫や骨折でたいそうな思いをした記憶が甦り、私は隔世の感を覚えた。便利になったねえ。いや、しかし、それどころではなかった。娘は約1週間後にバレエの発表会を控えていたのだった。初めて「名前のある役」をもらって、一緒に踊る仲間たちとも息ピッタリ、仕上がりも上々でほんとうに楽しみにしていたのだった。捻挫そのものは重症でもなかった。しかし、事情を打ち明けた時、医師は渋い顔をした。「ぎりぎり、踊れんこともないやろけど……」。たぶん、ハイティーン以上の大人なら対処できる程度の怪我だったと思われるが、娘はなんといっても5年生だった。「ほんまはやめとけ、て言いたいけどな」とカルテを見ながらつぶやいた医師は、娘の顔を見て「出たいやろ」と微笑んだ。娘は涙でぐしょぐしょになった顔でうなずいた。

痛みが後々残るようなことにはしたくないんですけど、と私が言うと、まず4日間は絶対安静です、歩いてもいけません、とびしっと言ってから医師は、その時点での足の状態によっては徐々に動かせる、どう動かすかは足を見て指示するからと娘と私の顔を交互に見ながらつけ加えた。「回復が思わしくなかったら本人は辛いでしょうが諦めさせましょう。そやからな、おとなしくしてんにゃで」

しかし、事はそうシンプルではないのであった。4日間の安静ののち、仮にダメ出しされたとして、では舞台はどうする? どのみち代役を立てる時間はないが、まったく舞台に出られないのと、満足にステップ踏めなくてもとにかくその場に居て場面を維持することができるのと、どちらがいいのか。
ポワントで立てず、ステップも踏めなくてただ人数合わせのためだけにそこにいても、事情のわからない観客にはヘタクソがちょろちょろしてるようにしか見えないはずだ。だったら一人欠けた状態でしのぐほうがマシじゃないのか。
4日間の安静ののち、順調に回復しているとしても、さらにその4日後の本番の舞台でベストに持っていくなんてこと、できるのか。そんな、百戦錬磨のアスリートや数多の苦難を乗り越えてきたプロダンサーじゃあるまいし。
まして、中途半端な回復期に、若干痛みがマシだからとはりきって踊って、捻挫が悪化するとかあとになって痛みや腫れがぶり返したとか、そんな事態が待っていないと誰が保証するのか。医師だって、そんな保証はできないではないか。
ここは、娘は嘆き悲しみ、バレエ教室は大騒ぎになるだろうけれども、涙をのんで出演を諦めるのが将来のためにもいい決断のはず。そう思って「悔しいし、悲しいけど、今回は出るの辞めようよ」と言ってみたが、「あり得ない」と一蹴された、娘に。

この時の自分の対応は、私にとって一生悔やんでも悔やみきれない大きな禍根となった。ひっぱたいても、舞台を諦めさせ、治療に専念させるべきだったのだ。

怪我をした日を含めて丸3日、娘は痛みとそれにともなう恐怖(発表会に出られないかもしれない、という恐怖)に泣き続けた。捻挫をすると、ずきずきと患部が疼く。内服薬でいくぶん緩和されるが、効き目が途切れるとまた痛み出す。けっきょくは日にち薬でしかないから、あるていどの間はどうしても痛み続ける。変な風邪や腹痛で熱を出したり嘔吐したりといった経験はあったが、このたびのような怪我には初めて遭遇したといっていいから、足首に悪魔が取り憑いたとでもいわんばかりに恐れおののいて泣いていたのだった。いや、しかし、あんまり泣かれると、もしや捻挫の痛み以外に何かあるのかと心配になるではないか。どう痛いの、どこが痛いの、痛みが強まってるの、と尋ねるも、ふぇんふぇんいたいいたいと赤子のようにぐずるばかりなのだった。

どう痛いのかちゃんと言葉で説明できなければ、誰もその怪我は治せない。そしてどう痛いのかを知るのは自分だけなのだ。

娘はなにがなんでも発表会には出ると言った。辞退なんてあり得ない、痛くても出る、お医者さんはギリギリ間に合うって言わはった、どうしてもナポリの踊り、踊りたい!……。だったら、足のどの部分がどんなふうに痛むのか、今度お医者さんに行ったらちゃんと言えるように、よく足の声を聴かなあかん! でないとなんぼ間に合うて言うたはってもやっぱり無理やって言わはるで!

しかし、こう言いきかせながらも私は、ああこれでおそらく無理矢理舞台に立つことになってしまうであろうと、翌日以降の展開が見えてしまった。そして、たぶんまた忘れた頃に、今度は怪我をしなくても足に痛みを覚える日がくるのだ。

これまでずっと、我が子の足が健やかに育つように「全力で取り組んだ」つもりだったのに、けっきょくは「奏効しなかった」といっていい。

4日後、嘘のように痛みがひき、娘は足をかばいながらも登校を再開し、バレエ教室のリハーサルも見学に行った。たしかに痛みはひいているようだった。娘の足の使いかたでよくわかった。若いから回復が早いと、再診のとき、医師は言った。「うまいこといくかもしれんな」と娘の顔を見て、ふたりしてにっこり。私は複雑だった。いいのか、これで。いや、よくはない。感情はぐるぐると空回りを続けたが、空回りしか、しなかった。

娘は無事に舞台を終え、怪我に負けなかったこととか直前のリハ不足をものともしなかったとかなんとかかんとかとたくさんの褒め言葉をいただいて、ご満悦であった。私も、正直、一度はほっと胸を撫でおろし、これでよかったと思うようにしよう、と気持ちを片づけたのだった。

だが、6年生になって陸上の練習が本格化する。それとともに、捻挫の患部だけでなくさまざまな場所に痛みを生ずるようになってきていた。痛みは、ベストパフォーマンスの妨げになる。それはどんなジャンルでも同じ。痛みに襲われ、レースの後半で失速した試合。痛みが拭えず、できるはずのステップが踏めなかった舞台。娘はつねに痛みと戦わなければならなくなった。時には勝ち、時には負ける。いずれにしてもつねに戦っているのだ。その始まりはあの捻挫だった。この怪我を完治させなかったのは私の優柔不断だ。

6か月検診で内翻足(内反足)と診断されて以来、片時も気を許さず娘の足を見つめ続けて、歩くようになってからは靴にこだわり、最良の靴を与え、草履を履かせてみたり、足にいいとされることはなんでもトライさせた。幸い内翻足は自然に矯正されたようだった。万事、うまくいっていたはずだった。
それが……豈図らんや。



スペイン映画『靴に恋して』の原題である「石」に込められた意味は、人生にはまずその人の根幹となる大きな石がどすんと置かれることが必要だ、ということだそうだ。大きな器にまず大きな石を入れる。器を隙間なく満たすには、大きな石を入れたあとは細かい砂や水を入れるしかないが、人生もそういうものだということらしい。『靴に恋して』の主人公たちは、その大きな石を得ていないから不運に振り回されている。けれどもやがて……という話なのだ。

あの怪我を完治させなかったことで、「石」を置かないまま中途半端に人生を歩かせていないか。いっぽう、痛みと戦い続けてきたせいで、娘はちょっとやそっとのことでは挫けない根性を身につけたともいえるから、そのこと自体を「石」と考えるか。
全然「靴」に「恋して」なんかいない映画の真意を理解して、ますます「靴」と「足」についてのあれこれを思い出して自己嫌悪に陥るのであった。
娘よ、私のことはほっといて大きく羽ばたいてくれ。

2014年5月4日日曜日

Les pieds...!

近所に、古い小学校校舎を改修したギャラリー&ホールがある。少子化のあおりを受けて多くの小学校が廃校になったが、このホールのように校舎のレトロな雰囲気を生かして改修・再利用するケースがほとんどだ。壊して真新しい建物にする場合も、ファサードは残すとか、校庭部分は残して地域のレクレーションの場にするとか、活用に苦心する様子は見受けられるもののなんとかさまざまに利用されている。

このホールはふだん芸術センターと呼ばれていて、著名なアーチストの公演や個展のほか、子どもたちの絵画や書道の作品展、学生の発表の場、伝統芸能の体験教室など多彩に活用されていて、廃校再利用としては成功例に入るだろう。私も娘もよく足を運び、音楽会、人形劇、コンテンポラリーダンス、狂言、落語などを鑑賞したり、絵画など美術作品の鑑賞にも行ったし、娘がうんと小さい頃は、図画工作の実習はもちろん、能楽の小鼓の体験学習も受けた。大人向けに、和室で茶道教室や校庭でテニススクールも開催されていると聞く。

2月、ここを会場に、フィンランドの振付家&彼のカンパニーが京都の実験ダンス集団と協力してダンスの上演を行った。フィンランドと書いたがアイスランドだったかも、ノルウェーだったかも、いや違うかもしれん……北欧には違いないけど、忘れた。
ダンスというよりはボディパフォーマンス。実は私はそういうものが大好きである。若い頃は、アングラ劇団やマイナーなミュージシャン、不思議な実験映像や身体表現を追いかけて、怪しげな掘建て小屋や廃墟ビルや空き地に建てたテントなどへ足を運んだ。何年もそういったものから遠ざかっていたけれど、できるだけ時間を確保して少しずつ好きなものへのアクセスを増やしていきたいと、切に思う今日この頃であったのである。芸術センターの公演はたいていリーズナブルなので、つねづね情報に目を光らせていたところ、件のコラボ企画が目に留まった。その北欧の振付家もカンパニーも知らなかったが京都のほうはコンテンポラリーでは名の知れた集団だったので、迷わず行くことにした。そう決めると、久しぶりに心躍った。

昔の校舎の講堂を生かしたスペースをそのまま平らに使って、白いテープでパフォーマンスエリアを区切り、その外側に、エリアを囲むように観客がぺたりと座る。ダンサーたちは白いテープのそこかしこからおもむろに歩き出したり走り出したり這い出したりして動き始める。いきなり、そのへんにいる人たちが立ち上がって、すっと動き始める。

ポーズ(休憩)を挟まずに、次々と身体表現が繰り広げられる。音楽は北欧の彼らと行動をともにしているオランダ人のミュージシャンが 隅っこに陣取り、ギターを弾いたりパソコンで電子音を出したりしている。ダンサーの動きを見ながら操作している、あるいは、好き勝手に音を出している。音に合わせて踊って(動いて)いるというよりも、あっちで鳴っている音と、こっちの人々の動きがたまたま出会ってシンクロしているといえばいいのか。見よう、聞きようによっては、緻密に計算され尽くしたパフォーマンスであるとも思える。
2時間余、たっぷり「カラダが創り出す空間」を堪能した。表現者たちはラフなシャツとパンツ、あるいはタンクトップやTシャツといういでたちで、色もバラバラ、何ひとつ統一された記号的要素はないのに、不思議な一体感を醸し出したボディパフォーマンスだった。
面白かった。芸術として、舞踊作品として非常に面白かったと言っていいのだが、専門的な批評眼をもたないので、私自身が受けた感銘をあまりうまく書き表わせないのが残念だ。

なにより、衝撃的なほどに感動したのが、彼らの「足」だ。
過去に何度もコンテンポラリーは観ているが、こんなに間近に裸足で踊る人の足を見たことはなかったかもしれない。昔、舞台にかぶりつきで鑑賞した覚えもあるが、たぶんその頃は「足」に関心がなかったのだろう。今回、私はダンサーたちの「足」ばかり見ていた。彼らの足は実に大きく、カッとゆびが開かれ、土踏まずはえぐられたように高く深く、中の関節がくるくる回るのが透けて見えるかのようなくるぶしをもっていた。ゆびも甲も土踏まずも「もの」を言う。足は高く振り上げられたり床を滑ったり、パートナーの脚や背の上を這ったりする。ダンサー自身の頭、体とは別の生き物が脚の先に付いているようにすら見える、「足」。
なんと力強い足だろうか。
男性も女性も、足による表現は、例外なく素晴しかった。
クラシックにおいても、ポワントを履いた足はその足首、甲、ふくらはぎでさまざまな感情表現をする。高度な技術と丹念に鍛え上げられた筋肉が備わってなければ、観客を魅了する表現はできない。
方法は違えど、裸足で踊るコンテンポラリーも同様である。
「足」は、最も重要なボディパーツかもしれない、ダンサーにとって。

思えば、娘は陸上競技者でもあったので、つねに足の痛みに泣かされてきた。
クラシックバレエと陸上競技とでは、筋肉の使いかたが異なるので鍛えかたも異なる。それは異なる方法で両方使えるようにそれぞれ鍛えればいいんでしょうといわれそうだが、人間の体は、ふつうの人間の場合だが、そんなに器用には働かないのだ。バレエと陸上、それぞれにとって不要な鍛えかたをしてしまうことが徒になり、鍛えてしまった結果本来使うべきでない筋肉をつい使ってそれぞれのパフォーマンス(踊るor走る)を行うと、無理が生じて痛みを発生するのである。

大腿部やふくらはぎの鍛えられかたの割に、娘の足は、土踏まずの筋肉が弱かった。そのため甲に痛みが生じた。リスフランとかなんとかいう傷病名だったり、筋膜がどうこういわれたり、外反母趾の症状もあり、骨折したり断裂したりはなかったけれども足の痛みのために踊れず走れずという日々が続く、といったことも経験した。舞台前のリハーサルで痛みが取れないと、ようやくこなせてきた難しい振り付けをけっきょくは平易なものに変更されたりする。陸上競技の試合や記録会前あるいは当日に痛むと当然ながらそれが記録に現れる。舞台も試合も、どちらも当日の本番一発勝負だから、痛みのせいで不本意に終わると大きな悔いを残す。
「まず休む。十分に休息を取ったら、土踏まずと足指の筋肉を鍛えるトレーニングを集中して行う。走るのも踊るのもそれからあと」
かかりつけの整形外科医が娘を診るたびに言った言葉だ。しかし、娘はバレエを休んだ時は走っていたし、部活を休む時は舞台のリハでびっしりだった。
娘の足はつねに悲鳴を上げていた。もっと足の声を聴け。もちろん、足だけではない、背中も腰も、つねに体はモノを言っている。その声を聴けるのは体の持ち主だけだよ。よく聴いて体の奥の変化を自分で感じ取らないと、ほかの人にはけっしてわからないのだから。10歳頃から娘は母親にそんなことを言われ続けてきた。
小学校で初めて足を捻挫したときに、わーわー、めそめそ、娘は泣いてばかりいた。途方に暮れて私は「泣いてても何がどうなんか、わからんっ」と一喝し、君の痛みは君にしか聴こえない体の悲鳴なのだということを、こんこんと言って聞かせた。

娘は、私の前では足の痛みを理由に泣かなくなった。しかし、浴室で、布団の中で声を押し殺して泣いていたことがよくあった。痛みが引かないまま本番を迎えざるをえなくて、やはり結果が芳しくなかった時は、その晩、こっそりと泣いていた。

例のダンス公演の感想を、娘にメールした。
「足がすごかったぞ。やっぱし、ダンスは足やで!」
返信が来た。
「足ね、足。らじゃー」
わかっているんだかなんなんだか。





足のケアは、何をするにせよ、重要だ。
老親の晩年を見ても、足が弱って歩けなくなることが活力を低下させてしまうのは明らかだ。
実は私自身、高校生の頃からスポーツが原因で足は故障ばかりしていた。きちんと治療せずに放置した結果、体は痛みのデパートと化している。親たちのような晩年を迎えないためにはどうしたらいいか真剣に考えなくてはならないが、自分のことを考えなくてはいけない時期というのは、たいてい子どものことがより重要であったりするのだ。
娘に書くメールの末尾には必ず足のケア忘れるなと書き添える。いたわって、よくマッサージして、ほぐして……etc.
「足」は脚の先に生息している「生き物」だからな。


2014年4月18日金曜日

Les petits rats 4



「くるみ割り人形」の第2幕、「お菓子の国」の場面はディヴェルティスマンで、金平糖のパ・ドゥ・ドゥの前にある華やかな「花のワルツ」は2幕の大きな見せ場のひとつである。いろいろなヴァージョンがあるが、多くの場合、「花の女王」と男性ダンサーのメインペアに群舞が取り巻くといったかたちが採られる。娘が通っていた教室でもそのパターンで、花の女王&男性、花の精(小学校高学年〜中学生)、花の精たち(低学年)、小さな花びら(幼児)という構成。「小さな花びら」たちは、舞台の端っこでひらひらしているだけなのだが、「女王」も「精」も舞台袖にいったん引っ込み、「精たち」が静止しているほんの少しの間、真ん中のポジションをいただいてステップを踏ませてもらえる(写真はそのシーン)。真ん中で照明が当たるのはこの瞬間だけだ。「花びら」の親やジイジバアバたちは目をいっぱいに開いて舞台上の我が子我が孫を凝視したことだろう。私も、もちろんそうだ。20人以上いた「花びら」の中の、自分の娘しか見ていない。振り付けを間違ったりしないでねと祈りながら、チュチュに縫いつけた花びら飾りが外れたりしないかハラハラしながら、神様からの贈り物にも等しい至福の数秒間を堪能する。

保護者の中には自身がバレエ経験者もいるし、バレエ鑑賞が若い頃からの趣味で目が肥えている人もいる。しかし、たいていは素人だ。ほかの子どもと我が子とを比べて上手いのかヘタなのかは判然としない。大きなお姉さんたちが輝くばかりに美しくて技術的にも優れているように見える。舞台芸術の何たるかも知らない。そうした意味で幼児クラスの保護者の会話は無邪気で他愛ないといえるし、お世辞の応酬ともいえるし、一般論に過ぎるともいえる。けっきょくのところは本音が出ない、あるいは出せない、ということに尽きる。
アンタの洟垂れ娘がちっとも振りを覚えないから練習が進まないじゃないの、なんてことは口が裂けてもいえない(って、どの世界でもこんなこと言ってはいけませんけどね。笑)。本番の舞台で隣に踊ってた子が間違ったり転んだりしたのを舌打ちしたり(どの世界でもこんなはしたないことはダメですけどね。笑)、誰かさんが失敗しなかったらもっとよかったのにねえなんてほかの親と声高にしゃべったり(どんな世界でもしてはいけない振る舞いですけどね。笑)できないといったことが続き、その代わりに「難しい振り付けだからお稽古するのたいへんよね」「みんな上手に踊れてよかったわね」「コケたのもご愛嬌よね」ほほほほほほ〜なんて会話を上滑りさせるばかりだと、大なり小なりフラストレーションがたまる。あるいは、みんなそのようなことは日常の些細なこととして消化していたのだろうか。少なくとも私は、ああこの会話の中には居られない……と逃亡したい気持ちに駆られることしばしばであった。

親たちの心配やイラつきをよそに、子どもたちは飛び跳ね、脚を上げ、腕をひらつかせながら大きくなっていく。
初めての子育てでは、幼児期までがとても長く感じられる。手のかかることが続く間は、我が子が小学生、中学生と成長していくことに想像が及ばない。私には、一緒に舞台に立った多くの子どもたちがとてつもなく眩しく見えていた。背の高さ、ポワントで立つというテクニック、舞台メイクの映える顔だち。指導のたまものとはいえ、振り付けられたとおりに踊り、列を乱さずにステージワークをこなす。裏方さんに挨拶をし、楽屋利用のルールを守る。この子たちは、ほんの数年、ウチの子より年が上だというだけなのに、なぜにこのように大人っぽいのだろう。ウチの子はほんとうにこの先輩キッズのように、規律正しく、お行儀よく振る舞えるようになるのか(いや、そう育てるのが親の仕事なんだが)。
娘が「花びら」を踊った舞台で「花の女王」を踊ったKちゃんは中学2年生だった。私には、彼女が「19歳の専門学校生」または「21歳の短大卒OL」に見えて仕方がなかった(なぜかこのふたとおり。笑)が、衣装をとり、レッスン着から着替えて私服に戻った彼女はたしかにあどけない中学生だった。
その後、二度主役を踊ったKちゃんは、自分のバレエ教室をとても愛しており、レッスンから退き社会人となった今でも発表会には裏方として手伝いに来てくれる。中3、高3の受験期にも、レッスンと出演は休んでも裏方には来ていたから、さまざまなことをよく心得ている。彼女の気働きと俊敏な動きがあるので舞台裏の準備はスムーズに流れるといっても過言ではない。おそらくはお勤め先でもとてもよく仕事ができ重宝されているのだろうなと想像がつく。

「花のワルツ」でリハーサルをともにしてからずっと、娘はKちゃんを慕い、Kちゃんはとても娘を可愛がってくれた。バレエを習ったからといって誰もがダンサーになるわけではない。しかし、幼い頃に幾つも年の離れた者どうしで一緒に何かを創りあげる経験ができるというのは、得難いことであり、必ず大人になってから活きることだろう。
娘はまだ修業中だが、何が生活の糧になろうとも、バレエのお稽古での経験は必ず活きることだろう。

(と、自分に言い聞かせるわたくし。笑)

2014年4月15日火曜日

Les petits rats 3


娘が通っていたバレエ教室の場合だが、「おさらい会」としてひとりひとりが習ったこと身につけたことを披露する場としての「秋のバレエコンサート」と、一年に一度の「定期学校公演」と位置づけられ、チャイコフスキーの三大バレエ作品を全幕公演する「春の発表会」、と年に2回の発表会があった。あとからわかったことだが、小規模な教室では2〜3年に一度のペースでしか行われないことが多い発表会を年に2回も実施するというのは、バレエ教室としての経営体力や催事の組織力というものがなくては不可能だ。教室長である先生はパリのオペラ座でも踊ったことのある地元では有名なバレリーナだ。そうした実績に加えて長年培った人脈のおかげで、「先生のご依頼なら喜んで」とひと肌脱ぐ人がたくさんいるのだ。会場やスタッフにかかる費用は莫大だ。それを、単に費用の問題と考えると舞台は失敗する。高い月謝をとり、臨時会費を集めて十分にまかなえたとしても、照明・音響・美術スタッフと阿吽の呼吸が成立しなければ、バレエに限らず、舞台の成功は遠のく。私は舞台といえばただ観劇するばかりで、開催する側にいたことはないので、娘のバレエのお稽古を通じて舞台発表の面白さを十分すぎるほど楽しませてもらった。愉快なことばかりではなかったが、ただ鑑賞するだけではけっして理解できなかった多くのことを知り、貴重な体験であった。

(と、今でこそ「貴重な経験であった」なんて訳知り顔でいえるのだが、当時はそんな余裕などまったくなかった。理由はいろいろあるけど。笑)

幼児クラスは、娘が所属しているクラス以外にも曜日違いでたくさんあり、当時、総勢50人は超えていたと思う。娘のクラスは20人くらいだっただろうか。
全幕バレエの中でたいして踊れないチビっ子たちを、それなりのシーンでそれなりに踊らせなくてはならないのだから、教師の苦労は延々と続く。配役、ポジション決め、振り付け、指導、ほかの生徒たちと合わせて全体として完成させる。想像しただけで目眩がしそうだが、わずかな期間にもかかわらず、子どもたちは振りをなんとか覚えるのだからたいしたものだ。
大きいお姉さん(お兄さんもいる)たちの、まばゆいばかりのお姫様の衣装、怪しげな黒い衣装、摩訶不思議な妖精の衣装を羨望の眼差しで見上げる。その足許でちょろちょろさせてもらえることの「名誉」は理解しないけれど(親も)、ほんとうに踊るのが好きな子は、幼くても「踊り」そのものを楽しみ、役を「演じる」ことができ、「舞台づくり」にとけ込んでいる。幼児クラスの子どもにとっては、日頃のレッスンから発表会前の振り付け、リハーサル、そして本番までつねに「団体行動」だ。その団体行動を、幼稚園や保育園の遠足や運動会とさほど変わりないものととらえ、先生に引率されて行うという意味で同じレベルで認識している子どもは、踊れないし、演じられない。心がそこにないからだ。手足が長くて柔軟な体をもつ子でも、関心がないと、けっして踊れないのだ。

文字どおり「ねずみ」の役で舞台の上を走り回った、初めての全幕作品。小さいなりに、物語を理解し、役どころ(=ねずみ)を自覚しようと懸命だった娘。ねずみはクララにたかって意地悪をし、助けを求めるクララを救いにくるみ割り人形が現れ、兵隊人形とねずみたちのバトルが展開される……。物語の火付けとなる重要な場面だっ(笑)。

主役のクララや金平糖の精を踊った女の子たちは当時高校生だったが、今は素敵な母親になっている。13年経ったのだ。

2014年4月10日木曜日

Donc... Tout est toujours question d'argent.

娘の留学を斡旋してくれたエージェンシーから次年度分の請求書が届いた。
通販会社の「お買い上げ明細書兼領収証」みたいなノリでさらっと記載されているけど、2通あって、合計金額は100万円を超える。その支払い期限がそれぞれ三日後と十日後(笑)。

だいたい、来年も留学を続けるとはまだ言ってないだろっ(やめるとも言ってないけど)、初年度もこの調子でぽんぽんぽんっと数百万円を払わされたのにさ(そのときだって人に助けてもらいながら必死で切り抜けたんだ)、けっきょく過剰に支払ったんだよね、それで精算してくれって言ったら「次年度に回します」。次年度の支払いの時期に充当し、その残金を請求すると言ってたわよね。だったら先にその金額を知らせなさいよっ。

……なんてことを言い募る度胸は持ち合わせていない(笑)ので、丁寧に、きちんと、頭のよくない相手にもわかるように明瞭な日本語で、こちらの言い分と、すぐには支払わない理由を書いて送った。

そしたら「A案件は今週中に決めてください」「B案件は今月中に決めてください」「いずれにしろ速やかに事前にお支払いください」。もちろんそれぞれの前後にたくさん尾ひれ背びれがついているのだが、すごい商売してるよなと思う。今はとくにユーロ高が激しいので、非常に損をする気分になる。ユーロ高はエージェンシーのせいじゃないし、彼らのビジネスにも影響しているだろうから金額が不当に高く感じられてもそこは斟酌しないといけない。そりゃわかってる。でも、でもさ、子どもを心配する親の心境につけ込んで、払わないならもうお世話しませんよと言わんばかりの態度がとっても気に入らない。

そうした印象を与えないように美しくお金を請求する文章の書きかたってあるのよ。気持ちよく払いましょうと思えるような書きかたが。

マニュアルがあるのか、それとも担当者の人間性が出ているのかどうか知らないが、こういうのこそ「個別対応」してもらいたい。お金なんか掃いて捨てるほどあるという裕福な家庭もあるだろうし、ウチのようにかき集めても搾りきっても足りないという家庭もあるのだ。保護者の「お金を遣う」ことに対するメンタリティは当然みな異なる。
私のように、屁理屈こねくり倒し、どういう使途でこの金額になるのか尋ねたり、安くしてくれないのとすっとぼけた問い合わせをしたり、挙句の果てには期限までには全然払わないといった保護者が「了解いたしました。できるだけ早くお支払い申し上げます。にっこり」と素直に対応するにはどう請求すればいいか、長いことこの商売やってんなら学習しておけよ、と言いたい。


と、いろいろあるけど、けっきょくは、なんでもかんでも、お金の問題。お金があるか、ないかの問題。そんな問題、おとといきやがれ、こんちくしょうめ。

母ちゃんは君が無事に自立するまで、頑張るからな。

2014年4月8日火曜日

Les petits rats 2



5歳になった4月からバレエ教室に通い始めた娘だったが、教室の幼児クラスにはすでに多くの「先輩」がいた。
幼児クラスはいちおう3・4・5歳が対象だった。しかし、娘が入った当時は、「オムツが外れていて、トイレに行きたい意思表示ができる」ならば2歳児も受け入れていた。そんなわけで、幼児クラスの「クラスメート」の中には3歳未満のときから始めて通い続けている、すでに「バレエ歴2年以上」の5歳児もいた。しかし、こういってはなんだが、早く始めているからといってその子たちがことさらに上手かといえば全然そんなことはなく、ただ、先生とすでに仲良しで、先生がこう言ったらこれをやる、といったことをすでに心得ている程度の差の分、前にいるだけだった。ああよかった、5歳で始めても遅すぎることはなかったな、と内心ほっとした。

ウチの娘より3か月ほど遅れて2歳半の女児が入ってきたが、母親は「実はオムツまだ取れてへんねんけど」ときまり悪そうにこっそり私に耳打ちした。「そうなん? 先生、なにも言わはらへんかった?」「もう取れてますって言うたもん」「え? でもあのお尻、バレバレやで」
その2歳半女児のレオタード姿は、はっきり紙オムツつけてます、とわかるほどにお尻が丸く膨らんでいた。

トイレトレーニングが終わっているかどうかは、レッスン着の問題ではなく、子どもの自立心の問題である。おしっこしたい、うんちが出そう、だからトイレに行きたい、だから「お母さん、トイレ行く」と服を引っぱる、「せんせい、トイレ行きたいです」と手を挙げる、という意思表示をするようになる。このことと、なにがしかの訓練を受け始める時期とは大いにかかわりがあるだろう。

オムツの外れていない2歳半の子が混じったスタジオは、その子がいなかった時期に比べると、かなり稚拙化して見えた。レッスン風景というよりも、なんだか「保育現場」に近かった。いや、もちろん、その2歳半の子がいなくても、幼児クラスではたいしたことはしないし、保育園のリトミック遊びの時間とそう変わらない雰囲気であるのは事実だった。だが、2歳と3歳の差って歴然としているな、とは実感した。娘の通っていた保育園では2歳までは赤ちゃん扱いで、3歳になると「幼児デビュー」し、日課などががらりと変わる。2歳までにオムツ外しは完璧なまでに終了される。バレエ教室の仲間たちはみんな幼稚園児だったが、3歳未満で始めた子もオムツが外れてから来たというし、当時3歳で来ていた子も、その2歳半女児に比べたらものすごく大人びて見えた。
その母親は、レッスンを見ながら待つ間、「や—ん、ウチの子、皆さんのペース乱してるんかも〜」とたいしたことでもないような口ぶりで「ごめんなさーい」などという。居合わせたほかの母親たちは皆作り笑いをしながら、おそらく内心かなりイラついていた(笑)。バレエのお稽古代は安くない。ウチは週1回しか通わせていなかったが、週2回来ている子も多かった。貴重な1時間のレッスンを、貴重な教師の時間を、赤子をあやしたりご機嫌とりするのに使われるのはまっぴらだ、と誰でも思う。

2歳半女児の母親は、数週間経て場の雰囲気に慣れてくると、年長児の母親たちにお受験情報を尋ねたり、あるいは幼稚園選びの顛末を嬉しそうに披露したりした。誰も彼女と話したがらなかったようだが、強引に話しかけて相手をさせる。私は、自分が連れてきた日でもレッスン中ずっと待っているということをあまりしなかったし、迎えに来れても終了ぎりぎりだったりであまりほかの母親たちと時間を共有しなかった。それゆえに、たまにずっと居ると必ずこの母親の餌食に(笑)なった。
母親がどんな人であれ、その子どもがもしバレエのレッスンが楽しくて、スタジオに入ったとたんに生き生きするとか、レッスン日を楽しみにするとか、そういうふうであればいいのにと思ったが、その2歳半女児はいつ見てもまったく楽しそうではなかった。子どもは正直だから興味を持てばそっちを注視するが、教師の声や身振りにも、音楽にも反応せず、好き勝手にスタジオ内をうろうろしては促されてまた戻るということを繰り返していた。だから私ははっきり言った。「バレエのお稽古、あまり好きとちゃうんちゃう? 無理強い、しいひんほうがいいよ」
すると驚くべき答えが返ってきた。
「だってな、なんかきれいな感じのお稽古してへんかったらかっこ悪いやん」
さらには、
「そっかー、向いてへんかなあ。ピアノに変えよかなあ」
最初からこいつ変な女、と思っていたが、さすがに、もう視界から消えてくれと念じたものだ。
この親子は年度終わりの春の発表会を前に姿が見えなくなった。母親たちは私も含め、一様にほっとした。たぶん、子どもたちもほっとしていたと思う。ウチの娘は自分も新米だから最初の頃は何も言わなかったが、初舞台を経て、本格的にお稽古が楽しくなってくると、ちっちゃな困ったちゃんにレッスンを邪魔されたくないなとは思ったであろう。でも、少なくとも、レッスンの場でその子のことを悪く言ったり、嫌悪の視線を投げたりといったことを、クラスの子どもたちは誰ひとり、しなかった(と思う)。小さいながらに、就学前の幼い心で、ここは芸事の鍛錬の場であり、自分たちは先生から教わっているのであり、その言葉、動きはすべて真似るべきお手本なのだということを深く感じていたのであろう。スタジオ内の空気をいっぱい吸い込んで、少しでも上手になりたいという強い気持ちを、程度の差はあってもどの子も持っていた。その気持ちを持たない子に構う暇などないほどに。

2014年4月6日日曜日

Ce que tu veux t'exprimer

「表現したい! もっと!」
ある日のメールに娘はこう書いてきた。

一日の報告を義務づけているわけではないので、メールが来ない日もある。4〜5行くらいしかないときもある。四六時中やりとりをしようと思えば、こんな便利な時代だからツイッタだのスカイプだの使えばいいんだろうけど、「一緒にいる」ということと、「遠く離れていてひっきりなしに交信する」ということは全然違う。いくら頻繁にやり取りをしていても、一緒にいる状態とは雲泥の差だ(だから遠距離恋愛が成就する確率は高くないのである。……って誰か言いましたっけ?)。それならいっそ、お互いに鎖を外してお互いに放し飼いになったほうがいい。どちらかというと私のほうが娘に見捨てられたくないので(笑)、こちらの生活の様子を記して知らせている。家のこと、おばあちゃんのこと、猫のこと、親戚のこと、町内のこと、学校のこと、京都のこと、日本のこと。天涯孤独でもない限り人間はけっして根無し草にはなれない。どこかに自分の存在理由の根っこがあるわけで、それから目を背けては生きてはいけない。むしろ、いつもその根っこに誇りと確信をもっていれば、凧のように高く高く舞い上がれる。糸の切れた凧ではなくて、糸がいくらでも伸びる凧である。早い話が、どこへ行っても母ちゃんを見捨てないでね、と言いたいのである。そんな願いから、わたしはこまめにメールを送る。すると娘も素直にレッスンの厳しかったこと、できたことできなかったこと、仲間の様子や生活のこと、街の風景を書いてくる。

“学校には自分より上手な人がいっぱいだ。あの子にはできてなぜわたしにはできないのか。できていると思っていたことは実はちっともできていなかった。基礎づくりも、体づくりも、体力づくりもまだまだだ。”

娘のメールからは、はっきりは書かないけれども、時にまるで「んんんがああああああ〜〜〜」と吠えているかのように「爆発したいよおおおっっっ!!!」的な強い「鼻息」(笑)みたいなものを感じることがある。渡航してすぐの頃は、まず周囲を見て現実に打ちひしがれていた。

“学校で教わっているうちに、身体表現は無限であると考えるようになった。身体表現にはあらゆる方法があり、バレエはそのひとつに過ぎない。バレエでは、ある伝統的な定型に基づいて最低限のルールを守りながら踊る。だが「伝統的な定型」のないジャンルももちろんある。伝統的な定型に基づいた振りでしか踊ってこなかったから、定型のない踊りは強烈に新鮮だ。”

娘は「いっぱいいろんな踊りのレッスンあって、面白いし楽しい〜♪」てな感じで書いてくるだけなんだが、その裏にはこれくらいの思いがあるということを汲み取ってやれるのは(というか親バカゆえに過大解釈し過ぎるのは)母親の為せる業であろうぞ。

“その踊りが見応えのあるものとして完成するには、観る者も心得る「定型」がない以上、踊り手の気持ち、心、魂がこもらないとダメだ。自分の体内の核心のまた芯の底から湧いてくる何か、が要る。”

クラシックを踊ることは、伝統的なシナリオの中でその役になりきることであり、定型ゆえの高度なテクニックが求められるが、モダンには「フェッテ36回以上」みたいな申し合わせの類いはいっさいない代わりに、フェッテ36回を超える「精神の表出」が求められる。
「今すっごくモダンダンスやりたい! 自分表現したい! 思いっきり!」
モダンを踊ることはある意味、クラシックで高難度の技を決めるよりも難儀なのである。
「自分表現したい!」の「自分」とは、字義どおりの「自分」よりももっと、かたちのない、しかしパワーにあふれる、観る者を圧倒する何かでなくてはならないんだけど……さて。




2014年4月3日木曜日

Il n'y a pas "deux pas" pour la danse.

ドイツでダンス修業中の娘が、市内にある別の学校のオーディションを受けて合格したと伝えてきた。在籍中の学校にちょっと閉塞感を感じていて、他の学校で学ぶ可能性を探っていたんだが、こうした芸能・技能系の学校って一長一短ある。良さそうに見えても費用が高額だったり、ある面では劣っていたりと、なかなかすべてにおいて素晴しい学校ってないものだ。あるにはあるだろうが、そんな学校にはおいそれと入れないわけである。
そんなわけで、手当り次第に資料を取り寄せ、体験レッスンやオープンクラスを受けたりして情報収集していたが、在籍中の学校の校長先生とじっくり話をして、残ることに気持ちが傾いているようである。

日本の教育界に顕著な傾向なんだけど、学ぶということに効率を求めるのは間違いである。あることを学ぶとき、学びかたも学ぶ早さも学ぶ深さも十人十色千差万別。もちろん、学校という場所は集団で学ぶので、教える側がひとりひとりに個別対応するわけにはいかない。だから教科書とかドリルとかを用いるのだ。共通の道具を使うことである程度習熟度を測ることができる。ただ、これは教える側の論理である。教える側は「効率よく」全員にマスターさせたいし、教えた成果を「効率よく」実感したい、明文化したい。その気持ちはわかるけど、その「効率よく」進めることを学ぶ側に押しつけてはいけない。「聴き流すだけで英語をマスターできる」CDで、ほんとに「マスター」できた人がどれほど居るのか知らないが、「学ぶ」とはそういうことではない。もし英語を読み書きでき、流暢に話すことができるようになりたいのなら、私ならまず範とする場所を英国か米国か決めて(だって言葉が違うからね)、そしてその場所における生活文化や歴史、美徳とされていることなどを知ることも、語学のレッスンと同時並行で進める。言語は人間が使うものだから人間の営みを知らずしてその言語を知ることなんかできないのだ。

でも、これは私の方法。他者にはベストなやりかたではない。何かを習得するための方法は、ひととおりではない。ないが、はっきり言えるのは近道もないということだ。たくさんの道があって、辿る道はそれぞれ異なっても、絶対に通らなければその先は望めない、そんな関所が、なんにでもある。

ダンスの場合、体づくりと基本の姿勢、動きを完全に自分のものにするためには、クラシックのメソッドが必須といわれる。そのメソッドも幾とおりもあるらしいので、どれがいいとかよくないとかまた諸説あるわけだが、とりあえず、ヨーロッパで誕生して世界各地で発展しているダンス・クラシック。これにおけるバーレッスンは基礎中の基礎だ。このバーレッスンを満足にこなせなければその先はないのである。

で、娘の場合。彼女が将来表現者として踊るジャンルがクラシックであろうとジャズであろうとコンテンポラリーであろうと、今、毎日毎日、言葉は悪いがアホの一つ覚えみたいに繰り返しているバーレッスンにおいて、未熟なうちは次のステップに進むべきではない。
いま在籍している学校の先生から「あなたはまだ十分に学んでいない」といわれたのである。まだまだクラシックの基礎を徹底的に訓練しなければ、どのようなジャンルのダンスであろうと踊れないと。

早い話が、まだそんなに下手っぴなのに何言うてんの、まだまだ発展途上なのよアンタは、これからもびしびし教えるからまず全部こなしなさい、それからほかの学校行くとかヌカシなさい。ということである。

なんにしろ、合格通知は嬉しいものだ。
自分の実力を測るにはいい経験になったであろう。
でも、謙虚に。足りないものがまだいっぱいある。貪欲に。何もかも吸収できる時期は、そう長くないんだから。





2014年4月2日水曜日

Les petits rats

13年前の春、私の娘は近所のバレエ教室の幼児クラスに通い始めた。土曜日の夕方、週1回。当時私は定休日のない生活だったので、娘は土曜日も朝から晩まで保育園にいたが、土曜日だけは私の母が夕方早めに園まで迎えに行き、一緒に教室まで歩いて行った。保育園もバレエ教室も、ふつうの大人なら徒歩で15分以内だが、幼児と高齢者のコンビにはけっこうな距離だった(今から思えば、私の母にはとてもよい運動であった)。

半年後、秋の発表会というのが行われ、娘は初めて「舞台」に立った。
それまでは、舞台といえば保育園のお遊戯会だった。
バレエ教室の舞台は、練習量も衣装もお遊戯会とは桁違いだったが、舞台上で展開される「パフォーマンス」(笑)は似たようなもんだった。つまり、教えるほうも教わるほうも一生懸命、客席には父ちゃん母ちゃんじいちゃんばあちゃんがぎっしり、上手やったわあ、よう頑張ったねと褒めてもらうために、すべてのエネルギーを一点集中させるのである。その結実としての「パフォーマンス」は、技や見た目の美は不問であり、ただ演技をする本人がその舞台を楽しみ全力で披露しているかどうかだけなのだ、問題は。

我が娘はこのときから喝采を浴びる快感を覚えた。
この快感を途切れなく得るために、現在に至る。