2014年5月11日日曜日

Les chaussures? Non, les pierres!

『靴に恋して』というスペインの映画を観た。図書館でDVDを借りたのだ。

ここ数か月、まめに近所のレンタル屋に通っていたのだが、そこで扱っている映画(ドラマ)の種類は90%が次の3種類。邦画、ハリウッド、韓流。
だからフランス映画もスペイン映画も借り尽くした。上質の英国もの、イラン映画、フィンランドのアキ・カウリスマキ監督作品、そういう「これ」っつうDVDは全部、借りて観てしまった。「お客様、こちら以前にもお借りですけど間違いなかったですか」なんて、パソコン画面の貸し出し履歴を見た店員がご親切にも確認してくれる。ええ、ええ、知ってるよ2回目よ、好きなのよお気に入りなのよその映画、それにアンタんとこ、ほかに借りたいもんないからさ、いいのよそれ借りるのよ。もっとヨーロッパのもん置いてよね。
というわけで、そうだ、図書館という手があった、しかも無料ではないか! と私はいさんで本だけでなくDVDをも図書館で借りる悦びを覚えてしまって、ちょっとヤバいのである。いや、だって、仕事がおろそかになっちゃいますもの。本とDVD、そんなに積み上げてどうするんだ私!

それはともかく、『靴に恋して』の主人公たちは「扁平足のアデラ」とか「外反母趾のマリカルメン」とか書いてあったので、そして原題の『Piedras』って、仏語で足を意味する「pied」と似ているから私はてっきり「靴」と「足」の話だと思って借りたのだ。そしたら全然違いました(笑)。

ここでこの映画の話をするのは趣旨と異なり、またこの映画の話が話だけに収拾つかなくなるので、ご興味のある向きは「靴に恋して」で検索をかけてもらい、たんまり出てくる映画評や感想の数々を参照されたい。

それにしてもほんとに、全然違ったんだぞ。「靴に恋して」なんつう邦題は詐欺だぞ。主人公の女たち、誰も靴なんかに恋していないぞ!!!
原題の『Piedras』の意味は「石」だそうだ。石だってえ?!



前回足の話を書いたけれども、スポーツや武道、舞踊など体を動かす者にとって足の痛みはつきものだ。だからフットケアはすごく重要。有森裕子さんがあるマラソン大会の解説をしている時に、「痛みがあると、ふつう、走れません」と断言していた。本番に痛みを持ち越すことはプレイヤーとして愚の骨頂、そして致命傷。だから、治して万全を期すことが理想だ。だけど、治らないことがよくある。こういうとき、治らないから本番を諦めるか、無理矢理、痛みを取り除くか。
私は「治す」のを優先させたい。それが成長中の子どもだったら、なおさらではないか。痛みに耐えてプレイする、そのこと自体は美しいかもしれないが、その後何年も痛みがあとをひく危険性があるのだ。いや、必ずそうなる。私がそれを経験済みだから、今なお若い時の古傷の痛みに悩まされる中高年となっちゃったから、そんな目に遭わせたくないとの思いから、いまの怪我はいま治す、いまの痛みはいま癒す、ことを徹底したいと思った。思ったんだけど……。

校庭でバスケットボールをして遊んでいて、友達と足が絡まって捻挫して転んだ。娘は5年生だった。学校近くの整形外科でレントゲンを撮り、湿布をされ、足首サポーターをはめられた。サポーターは簡易ギプスとでもいおうか、がっちりと足を包んでサポートするものだが、付け外しがとても簡単だ。自分が捻挫や骨折でたいそうな思いをした記憶が甦り、私は隔世の感を覚えた。便利になったねえ。いや、しかし、それどころではなかった。娘は約1週間後にバレエの発表会を控えていたのだった。初めて「名前のある役」をもらって、一緒に踊る仲間たちとも息ピッタリ、仕上がりも上々でほんとうに楽しみにしていたのだった。捻挫そのものは重症でもなかった。しかし、事情を打ち明けた時、医師は渋い顔をした。「ぎりぎり、踊れんこともないやろけど……」。たぶん、ハイティーン以上の大人なら対処できる程度の怪我だったと思われるが、娘はなんといっても5年生だった。「ほんまはやめとけ、て言いたいけどな」とカルテを見ながらつぶやいた医師は、娘の顔を見て「出たいやろ」と微笑んだ。娘は涙でぐしょぐしょになった顔でうなずいた。

痛みが後々残るようなことにはしたくないんですけど、と私が言うと、まず4日間は絶対安静です、歩いてもいけません、とびしっと言ってから医師は、その時点での足の状態によっては徐々に動かせる、どう動かすかは足を見て指示するからと娘と私の顔を交互に見ながらつけ加えた。「回復が思わしくなかったら本人は辛いでしょうが諦めさせましょう。そやからな、おとなしくしてんにゃで」

しかし、事はそうシンプルではないのであった。4日間の安静ののち、仮にダメ出しされたとして、では舞台はどうする? どのみち代役を立てる時間はないが、まったく舞台に出られないのと、満足にステップ踏めなくてもとにかくその場に居て場面を維持することができるのと、どちらがいいのか。
ポワントで立てず、ステップも踏めなくてただ人数合わせのためだけにそこにいても、事情のわからない観客にはヘタクソがちょろちょろしてるようにしか見えないはずだ。だったら一人欠けた状態でしのぐほうがマシじゃないのか。
4日間の安静ののち、順調に回復しているとしても、さらにその4日後の本番の舞台でベストに持っていくなんてこと、できるのか。そんな、百戦錬磨のアスリートや数多の苦難を乗り越えてきたプロダンサーじゃあるまいし。
まして、中途半端な回復期に、若干痛みがマシだからとはりきって踊って、捻挫が悪化するとかあとになって痛みや腫れがぶり返したとか、そんな事態が待っていないと誰が保証するのか。医師だって、そんな保証はできないではないか。
ここは、娘は嘆き悲しみ、バレエ教室は大騒ぎになるだろうけれども、涙をのんで出演を諦めるのが将来のためにもいい決断のはず。そう思って「悔しいし、悲しいけど、今回は出るの辞めようよ」と言ってみたが、「あり得ない」と一蹴された、娘に。

この時の自分の対応は、私にとって一生悔やんでも悔やみきれない大きな禍根となった。ひっぱたいても、舞台を諦めさせ、治療に専念させるべきだったのだ。

怪我をした日を含めて丸3日、娘は痛みとそれにともなう恐怖(発表会に出られないかもしれない、という恐怖)に泣き続けた。捻挫をすると、ずきずきと患部が疼く。内服薬でいくぶん緩和されるが、効き目が途切れるとまた痛み出す。けっきょくは日にち薬でしかないから、あるていどの間はどうしても痛み続ける。変な風邪や腹痛で熱を出したり嘔吐したりといった経験はあったが、このたびのような怪我には初めて遭遇したといっていいから、足首に悪魔が取り憑いたとでもいわんばかりに恐れおののいて泣いていたのだった。いや、しかし、あんまり泣かれると、もしや捻挫の痛み以外に何かあるのかと心配になるではないか。どう痛いの、どこが痛いの、痛みが強まってるの、と尋ねるも、ふぇんふぇんいたいいたいと赤子のようにぐずるばかりなのだった。

どう痛いのかちゃんと言葉で説明できなければ、誰もその怪我は治せない。そしてどう痛いのかを知るのは自分だけなのだ。

娘はなにがなんでも発表会には出ると言った。辞退なんてあり得ない、痛くても出る、お医者さんはギリギリ間に合うって言わはった、どうしてもナポリの踊り、踊りたい!……。だったら、足のどの部分がどんなふうに痛むのか、今度お医者さんに行ったらちゃんと言えるように、よく足の声を聴かなあかん! でないとなんぼ間に合うて言うたはってもやっぱり無理やって言わはるで!

しかし、こう言いきかせながらも私は、ああこれでおそらく無理矢理舞台に立つことになってしまうであろうと、翌日以降の展開が見えてしまった。そして、たぶんまた忘れた頃に、今度は怪我をしなくても足に痛みを覚える日がくるのだ。

これまでずっと、我が子の足が健やかに育つように「全力で取り組んだ」つもりだったのに、けっきょくは「奏効しなかった」といっていい。

4日後、嘘のように痛みがひき、娘は足をかばいながらも登校を再開し、バレエ教室のリハーサルも見学に行った。たしかに痛みはひいているようだった。娘の足の使いかたでよくわかった。若いから回復が早いと、再診のとき、医師は言った。「うまいこといくかもしれんな」と娘の顔を見て、ふたりしてにっこり。私は複雑だった。いいのか、これで。いや、よくはない。感情はぐるぐると空回りを続けたが、空回りしか、しなかった。

娘は無事に舞台を終え、怪我に負けなかったこととか直前のリハ不足をものともしなかったとかなんとかかんとかとたくさんの褒め言葉をいただいて、ご満悦であった。私も、正直、一度はほっと胸を撫でおろし、これでよかったと思うようにしよう、と気持ちを片づけたのだった。

だが、6年生になって陸上の練習が本格化する。それとともに、捻挫の患部だけでなくさまざまな場所に痛みを生ずるようになってきていた。痛みは、ベストパフォーマンスの妨げになる。それはどんなジャンルでも同じ。痛みに襲われ、レースの後半で失速した試合。痛みが拭えず、できるはずのステップが踏めなかった舞台。娘はつねに痛みと戦わなければならなくなった。時には勝ち、時には負ける。いずれにしてもつねに戦っているのだ。その始まりはあの捻挫だった。この怪我を完治させなかったのは私の優柔不断だ。

6か月検診で内翻足(内反足)と診断されて以来、片時も気を許さず娘の足を見つめ続けて、歩くようになってからは靴にこだわり、最良の靴を与え、草履を履かせてみたり、足にいいとされることはなんでもトライさせた。幸い内翻足は自然に矯正されたようだった。万事、うまくいっていたはずだった。
それが……豈図らんや。



スペイン映画『靴に恋して』の原題である「石」に込められた意味は、人生にはまずその人の根幹となる大きな石がどすんと置かれることが必要だ、ということだそうだ。大きな器にまず大きな石を入れる。器を隙間なく満たすには、大きな石を入れたあとは細かい砂や水を入れるしかないが、人生もそういうものだということらしい。『靴に恋して』の主人公たちは、その大きな石を得ていないから不運に振り回されている。けれどもやがて……という話なのだ。

あの怪我を完治させなかったことで、「石」を置かないまま中途半端に人生を歩かせていないか。いっぽう、痛みと戦い続けてきたせいで、娘はちょっとやそっとのことでは挫けない根性を身につけたともいえるから、そのこと自体を「石」と考えるか。
全然「靴」に「恋して」なんかいない映画の真意を理解して、ますます「靴」と「足」についてのあれこれを思い出して自己嫌悪に陥るのであった。
娘よ、私のことはほっといて大きく羽ばたいてくれ。

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