2014年4月6日日曜日

Ce que tu veux t'exprimer

「表現したい! もっと!」
ある日のメールに娘はこう書いてきた。

一日の報告を義務づけているわけではないので、メールが来ない日もある。4〜5行くらいしかないときもある。四六時中やりとりをしようと思えば、こんな便利な時代だからツイッタだのスカイプだの使えばいいんだろうけど、「一緒にいる」ということと、「遠く離れていてひっきりなしに交信する」ということは全然違う。いくら頻繁にやり取りをしていても、一緒にいる状態とは雲泥の差だ(だから遠距離恋愛が成就する確率は高くないのである。……って誰か言いましたっけ?)。それならいっそ、お互いに鎖を外してお互いに放し飼いになったほうがいい。どちらかというと私のほうが娘に見捨てられたくないので(笑)、こちらの生活の様子を記して知らせている。家のこと、おばあちゃんのこと、猫のこと、親戚のこと、町内のこと、学校のこと、京都のこと、日本のこと。天涯孤独でもない限り人間はけっして根無し草にはなれない。どこかに自分の存在理由の根っこがあるわけで、それから目を背けては生きてはいけない。むしろ、いつもその根っこに誇りと確信をもっていれば、凧のように高く高く舞い上がれる。糸の切れた凧ではなくて、糸がいくらでも伸びる凧である。早い話が、どこへ行っても母ちゃんを見捨てないでね、と言いたいのである。そんな願いから、わたしはこまめにメールを送る。すると娘も素直にレッスンの厳しかったこと、できたことできなかったこと、仲間の様子や生活のこと、街の風景を書いてくる。

“学校には自分より上手な人がいっぱいだ。あの子にはできてなぜわたしにはできないのか。できていると思っていたことは実はちっともできていなかった。基礎づくりも、体づくりも、体力づくりもまだまだだ。”

娘のメールからは、はっきりは書かないけれども、時にまるで「んんんがああああああ〜〜〜」と吠えているかのように「爆発したいよおおおっっっ!!!」的な強い「鼻息」(笑)みたいなものを感じることがある。渡航してすぐの頃は、まず周囲を見て現実に打ちひしがれていた。

“学校で教わっているうちに、身体表現は無限であると考えるようになった。身体表現にはあらゆる方法があり、バレエはそのひとつに過ぎない。バレエでは、ある伝統的な定型に基づいて最低限のルールを守りながら踊る。だが「伝統的な定型」のないジャンルももちろんある。伝統的な定型に基づいた振りでしか踊ってこなかったから、定型のない踊りは強烈に新鮮だ。”

娘は「いっぱいいろんな踊りのレッスンあって、面白いし楽しい〜♪」てな感じで書いてくるだけなんだが、その裏にはこれくらいの思いがあるということを汲み取ってやれるのは(というか親バカゆえに過大解釈し過ぎるのは)母親の為せる業であろうぞ。

“その踊りが見応えのあるものとして完成するには、観る者も心得る「定型」がない以上、踊り手の気持ち、心、魂がこもらないとダメだ。自分の体内の核心のまた芯の底から湧いてくる何か、が要る。”

クラシックを踊ることは、伝統的なシナリオの中でその役になりきることであり、定型ゆえの高度なテクニックが求められるが、モダンには「フェッテ36回以上」みたいな申し合わせの類いはいっさいない代わりに、フェッテ36回を超える「精神の表出」が求められる。
「今すっごくモダンダンスやりたい! 自分表現したい! 思いっきり!」
モダンを踊ることはある意味、クラシックで高難度の技を決めるよりも難儀なのである。
「自分表現したい!」の「自分」とは、字義どおりの「自分」よりももっと、かたちのない、しかしパワーにあふれる、観る者を圧倒する何かでなくてはならないんだけど……さて。




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